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元禄 山野流浪紀 その二十二 遺言

  1. 私小説
2026/10/19

ぶくぶくと泡立ち鍋からいい匂いが立ち昇っている。すでに兎の肉をたらふく食べた黒彦は満足そうに前足に顎を乗せて土間で休んでいる。今か今かと待ち侘びている秀吾は腕と箸を持って待ち構えている。晋助は蓋を開けた。白い湯気が天井まで立ち昇り、鍋の中身が見えた。「美味そうですね晋助さん。」「うむ、喜助。年中兎は食うが今から、春までが一番美味い、兎も脂が乗って旨みと滋養が・・」「晋助そのような講釈は後にして、兎汁を食わせろ。」「分かった、分かった。秀吾はせっかちだからなあ、それ椀をよこせ。」「まぁ、兄上その様なはしたない、武士は食わねど高楊枝でございますよ。」「良いのだ、武士は二年前に捨てた。だが、この兎汁には武士をも捨てさせる旨さがある、それほど旨味いのだ。」「分かっております。私も足利で晋助様の兎汁のご相伴にあずかりましたので。」秀吾はまず兎汁を一口啜った。「んっかあぁっ、美味い。冷え込み始めたこの時期の兎は”まっこと”美味いのう」「さぁ、小夜殿もどうぞ。」「いえ、わたくしは後でよろしゅうございます。」「何をおっしゃいます。ささっ、遠慮なさらずにどうぞ。」小夜も一口啜った。「ほんと、兄上の仰る通り、美味しゅうございます。足利でいただいた物も美味しゅうございましたが、ここでとれた兎は格別でございます。」喜助も「ああ、やっと私の番がきました。ここへ帰る途中の鰻も、力餅も、お切込みも美味かったのですが、やはり沢渡の兎は別格ですね。」晋助も兎鍋をすすりながら「なんだ喜助、そんなにあれこれ美味いものを食ったのかお前は、わしなど足利へ赴いた時はとるものもとりあえず、急ぎ帰ったと言うのに。」食べていた小夜がむせてせき込み、顔を赤くして下を向いている。晋助が「小夜殿大丈夫ですか。のどに詰まったのではないですか。喜助、水だ水。」水を飲んで落ち着いた小夜はなおも下を向いて。「違うんです。喜助さんが食べたいと言ったわけではございません。私が食べたいと申したのです。」「・・・いや、そうでしたか。・・そうですな、やはり旅と言えば食事ですから、それは名物と聞いて食べぬわけには参りますまい。それで、それぞれの名物はいかがでした。」「ええ、美味しゅうございましたが、私も晋助さんのこの鍋が一番おいしゅうございます。」「晋助さん、酷いじゃないですか、私が食べたと言えばそんなにあれこれ食べたのかと詰められ、小夜様が食べたとなれば、名物と聞いては食べぬわけにはいかぬと申されるは、いかにも理不尽。私とてこの旅は折半、少しは旅の楽しみを味わってもいいではないですか。」秀吾が「うむ、それは喜助の言い分が正しい。が最近喜助は生意気になった。昨日はわしに空かしを食らって、すっころんだといいよった。」「あららら、お二人ともまた舌の根も乾かぬうちにその様な事を、先日、喜助お前は朋輩じゃと仰ったではないですか。朋輩のことを、あれこれ食べた、生意気だと仰られるとは、これでは何のために足利へ赴いたのか・・・」小夜が「うむ、それは喜助さん言い分が正しい。が最近三人は揚げ足取りがが多すぎる。何処までが真剣でどこまでが冗談かわからぬ、もうよい。自重いたせ。」

「さぁ、腹も満ちた。それで小夜、婆婆様はお元気か。」目をつむり下を向いた小夜は「先日、お亡くなりになりました。丁度、喜助さんがいらした翌日に・・」「亡くなっただと、なぜそれを早よう言わん。」喜助が割って入った「お待ちください秀吾さん。友江様がお亡くなりになられたのは十日程前です。先ずは私の話を聞いてください。旅は順調に進み・・・」喜助は足利に着いて小夜に会い、友江の様子を見て、友江に時間がない事を悟ったと話した。気と薬でほんのひと時意識を取り戻された友江様は、私に、秀吾に伝えてくれと「兄として、一人の人として仁義を果たした。なにも臆することはない、胸を張って前を向いて歩め」と伝言されました。私はそれは秀吾さんに直接お伝えしてはと申し上げたのですが、もう、時間が残っておらん、最後の頼みと思うて伝えてくれと申されました。そして、誰にともなく、ありがとうと言ってお休みになられました。それからはもう目を覚まされませんでした。まるで私が来るのを待っていた様にその伝言を伝えて、逝って終われました。」秀吾は涙を流していた。それを伝え終わると喜助も涙が溢れた。「小夜、すまなかった。婆婆さまは喜助に託された。お前では無く喜助に、その事にも意味があったのだろう。喜助、小夜と二人、婆婆さまをみとってくれてありがとう。」「いえ、私は大したことはできませんでした。すべて小夜様の取り仕切りの下に事は運ばれました。」「小夜、すまぬが亡くなるまでの一連の様子を聞かせてくれ。」「はい、兄上。ひと月ほど前から、寝たきりのようになり、食事もあまり・・・」と小夜は話し始め、丘の上の直江家先祖代々の墓の脇に埋めましたと結んだ。「戒名はいただきましたが、墓石は兄上と相談の上と思い進めておりません。」「そうか…すまなかった。不甲斐ない兄を許せ、小夜。」「何をその様な、喜助さんの伝言にもありましたように、兄上は仁義を果たしました、婆婆様の言う通り胸を張っておられませ。」晋助も「そうだぞ秀吾、顔を上げ胸を張れ、ましてやお前は直江の当主であろう。もう一年ほどで足利に足を踏み入れることもできる。一年などあっという間だぞ友江様の墓を立てねばなるまい、うかうかしてはおれんぞ。」秀吾は頬を拭って、「そうだな。」と言って笑顔になった。「その事なのですが、婆婆さまが、嫁入りのためにと金子を託されましたが、兄上それで婆婆様の墓を建てられませ。」「小夜、婆婆様はいかほど金子を託されたのだ。」「ざっと、百両ほど。」「百両っ・・・いや、それは受け取れん。それはお前の嫁入りのために託されたのだ、自分のために使ってくれ。」「兄上、今の話ではありませんが、一年などあっと言う間です、ご遠慮なさいますな、お使いください。」「要らぬと言うたら要らぬ。直江家の当主として、婆婆様の墓はわしが必ず建てる。」喜助が「まあまあ、お二人共、ご兄弟でございます。一周忌の法要までにお考えになれば良いではないですか。」「そうだぞ秀吾、わしらも朋輩だ、その話に一枚かませろ。」「何を言う、これは直江家の問題だ。おぬしらには関係のない事だ。」「なんだ、血筋のことを言うておるのか。それならわしと秀吾は義理とはいえ兄弟になるのではないか。そう遠くはないと思うぞ。」いっとき静まり返った後、小夜は顔を真っ赤にして、下を向いた。「晋助さん、こっぱずかしくは無いのですか、何を臆面もなく小夜様の前でその様な事を言われます。聞いておるこっちの方がムズムズします。それに私はまだ十四なのですよ、そのような話はお二人の時にしていただけますか。」「喜助そうか、お前も十四か。そうだ、京の当店から東に進んだ所の大店の反物屋の枡田屋に奉公に上がっている。ほら、何と言うたかな、そうそう、お清ぼうを熱く見つめるお前のことをわしが知らぬと思うたか。」今度は喜助が赤くなった。「なにを申されます、晋助さん。私はそのような人は知りません。」「はっはぁ、しらを切るきか喜助。わしがあそこの番頭さんと立ち話をしておった時に、その娘の背負うておった荷が崩れそうになり、支えて荷を直してやっておったではないか、ありがとうと言われて顔を赤うしておったことに、わしが気付いておらんと思ったか。」「あれはただの親切です。他意はございません。」「おかしいなぁ、その後も何くれとなく、反物屋の店先をちらちらと見ておったでは無いか。お清坊を探しておった事は明白、よって喜助お前の罪は張り付け獄門。このお白洲で裁きを受けい。」「お代官様、お許しを。」「ならん、白状せい。」「ほんの出来心に御座います・・・」「晋助さん、喜助さん、何ですか、その三文芝居は、ちゃんちゃら可笑しゅうて、へそで茶が沸きますわ。せっかく婆婆さまの遺言を喜助さんがお伝えしたところですのに」「いや、それは申し訳なかった。つい、浮かれてしまって。」「小夜様、すみません。私も調子に乗ってしまって・・」小夜は閉めた「まあ、この一件はこれで手打ちじゃ。」一同は「ははっあ。仰せのままにとひれ伏した。」

秀吾が「ところで小夜、いつまでこちらに居れる。」小夜は「いつまでとは決めておりません。足利へ帰っても一人ですし、一応の片づけは喜助さんと終えてきましたので、折を見て帰ります。」「なあ秀吾、この一冬だけでも小夜殿に居てもらってはどうだろう。」「晋助、ここはお前の庵だ、わしが決める事ではない。」「小夜殿、いかがだろう。春までには借金の返済は済むであろうし、いくばくかの旅費も貯まるだろうから、誰かが足利へ送り届けることもできるだろう。」「兄上も喜助さんもそれでいいのですか。」「良いも悪いもないだろう。こんなところでよければいつまでも居ればよい。」「私も相違ありません、小夜様さえよければ。」そんなわけで、とりあえず春まで小夜は沢渡村に居候することになった。
「さあ、小夜殿、今日はわしがここらを案内しよう。」喜助が「晋助さん、私がご案内いたしますよ。お仕事もおありでしょうし。」「こら、喜助こっちに来い。まったくお前は・・気を利かせろ」「何ですか秀吾さん、私は小夜様に・・」「いいから来い。」二人は表に出て行った。「あれで、秀吾も中々気を使っているのだろうな。」「あの兄上がですか。」「いい男だ。顎はしゃくれておるが、心はしゃくれてはおらん。」「兄上にもいいお嫁さんが来てくれるといいのですが。」「うむ、心当たりがないでもないが・・」「兄上が心を許しておられる方がいらっしゃるのですか・・」「一筋縄ではいかんだろうがな。まぁ、おいおいに考えよう。」扉を開けて表の日差しの中にでた。二人を包む小春日和の日差しは柔らかかった。

今日は初めて橘屋に小夜を連れていくことになった。「本当に良かったのですか、喜助さんを留守番にさせて。」「なぁに、彼奴は几帳面で仕事はきちんとこなす、それに黒彦と一緒なら寂しくは無いだろう。」「また、兄上はそのような事を、喜助さんには私が帰りに土産を買って帰りましょう。」「毎度の留守番に土産など買っておったら財布が空になるぞ小夜。」「よいのです。喜助さんは弟のような者です。喜助さんが喜ぶならそれで良いでは無いですか。」晋助も「わしにとっても喜助は弟だ、小夜殿が目をかけてくれるのは嬉しい。だが、留守番もまた修行。我慢もせねば・・」

橘屋の暖簾をくぐった。おはようございます。沢渡の晋助でございます、薬草を御届に参りました。」「晋助さんいつものように裏へ回ってください。」「はい、それでは裏へ。」いつも通り縁側のふちで荷を下ろし、行李の薬草をそれぞれ広げた。番頭の惣吉が「あの、こちらのお嬢さんは・・」秀吾が「うむ、わしの妹じゃ、番頭さん、以後お見知り置きを。」と告げると「ええっ、秀吾さんの妹君ですか・・お顔の小さい、すっきりと鼻筋の通った・・あまり、秀吾さんには似ていらっしゃらない・・」小夜は「はい、兄には似てないと皆に言われますが、正真正銘、妹でございます。番頭さんどうか兄共々よろしくお願いいたします。」欠相を変えて番頭の惣吉は奥に引っ込んだ。しばらくして廊下を惣吉とお詩乃が「もう、そんな”やいやい”言わんでも伺いますから、そんな急かさんでも・・」とブツブツ言いながらやってきた。お詩乃は「まあ、皆さんお揃いで、縁側で腰を折って頭を下げていた三人が顔を上げた。お詩乃は「まあ、本当に秀吾さんの妹さん。可愛らしいこと。それは、晋助さんも惚れ込むわ。」小夜は頬を染めた。秀吾が「まあ、色々あって喜助が、この小夜を沢渡に連れ帰ったのだ。女将、よろしく頼む。」「晋助さん、薬草はいつも通りに上がってる?」「はい、女将さん。橘屋さんが満足いただける品になっています。」「ほな、もうええわ、後は惣吉に任せて、奥に入って。」「いやいや、きちんと吟味していただかないと・・」「そう言うてくれるほどの自信があるんやから、いつも通りの値で買い上げさせてもらうから。早よ上がって。」お詩乃は先に立って奥の部屋に歩き出した。