何もかもが初めての経験だった。小夜の指示に従って立ち働いた。友江が亡くなったのは秀吾や晋助の手紙を読んだ翌日だった。亡くなったと言うより、朝を迎えても目覚めない、今も眠りを貪っているというようだった。そして、手紙が届くのを待っていたかのように、逝ってしまった。葬儀を終え、経を唱えてくれた和尚を寺に送り届け、墓の前に佇む小夜に「和尚様を送り届けて参りました。」と告げた。「喜助さん、何もかもお世話になりました。私一人では到底出来ませなんだ、本当にありがとう。」「いえ、私は何も・・・しかし、今でも信じられません。友江様がしっかりした意識の中で手紙を拝読されて、私に秀吾様への伝言を託された事は、まるで私が来るのを待っていたかのようで、そんな事があるのだと不思議でなりません。」「喜助さん私は信じます、神様が成された、この天佑神助を。婆婆様は確かに待っていたのだと。」二人は盛り上がった土の上に乗せた石に手を合わせた。小夜は井戸で手を洗い「さぁ喜助さんもどうぞ」と促したが、喜助は「小夜様、私は体術の稽古をしてから中に入ります。いいですか。」「そうですか、では私は先に入っております。」そう言って中に入った。喜助は小夜がまだ涙を流していないことを知っていた。心静かに、友江様に感謝と別れの心の対話がひと時必要だと言うことを。喜助は、上半身は裸になり、下は野袴の成りで、丹田に気を集めた。頭を空っぽにしてじっとしていたが、「ヤァッ」と気合いを発し、基本の形を成していく。凪いだ夕暮れの柔らかな光の中で、びゅん、びゅんという空気を切り裂く音がその場を支配していた。
小夜は、友江が寝ていた場所に膝を折った。いつ書いたのだろう、小夜宛に一通の手紙が枕の下にあった。葬儀の間、開く事をしなかったが、今それを取って開いてみる。「小夜、長い間ありがとう、やっと解放されたのだな。両親が亡くなり、秀吾が彼の地を去り、病床のわしを一人で支えねばならないお前には、胸が苦しくなるほどだった。それは感謝しても仕切れぬほどに募っておった。小夜、もうこれで思うままに生きる事ができる。足枷など無いのだ、思ったように生きなさい。それから茶箪笥の一番下の引き出しの奥に、少ないが婆婆が貯めた金がある。嫁入り支度のために貯めたものだ。持ってお行きなさい。秀吾に宜しく伝えておくれ。」婆婆さまも心苦しく思っておられた、私に不自由をかけている事に・・・涙が溢れた。婆婆さまは、父であり、母であり、何でも話せる友でもあった。共に笑い、泣き、慰め、時に叱咤し、奮い立たせた。肩を抱き、背中を撫ぜ、手を握ってくれた。そして最後に思うままに生きろと言ってくれた。堪えきれず大声で泣き叫び、天を仰いで叫んだ「婆婆さまぁ、婆婆さまぁ」部屋に入り込んできた薄闇にただその声は響くばかりだった。
静かに朝餉をいただいたあと喜助は「小夜様、これからどうなさいますか。何かお考えがありますでしょうか。」「分かりません。正直に言えば婆婆さまが亡くなり、ただ茫然と致しております。」「友江様が亡くなった直後です。それは当然かと思いますが・・・小夜様、私と一緒に秀吾さん、晋助さんの元へ参りませんか、私も友江様の伝言を秀吾さんにお伝えしなければなりません。もちろん、まだこちらでやらなければならない事が多いかと思いますが、一度小夜様の口から、秀吾さんに友江様の最後をお伝えしておいてからでも良いのでは無いですか。」「・・本当ですね。婆婆さまの最後の伝言を兄上に届けなければなりませんね。」「それに晋助さんにも。」小夜は晋助の名前を出されて赤くなった。そうだ、晋助様に会える。そう思っただけで、身体が熱くなった。「喜助さん、連れて行って下さい。兄と晋助様の所へ」そうして、取るものもとりあえず、着の身着のまま松本への旅支度を始める事になった。
「小夜様は旅に出かけられた事はございますか。」「旅に出るのは初めてです。いえ、足利を出るのは初めてです。」「そうですか・・実は私も先日、秀吾さんにお連れいただいて、初めて京を出ました。私はそれまで人の賑わいや、物の多さ、その他の事においても京が一番だと思っていました。ところが秀吾さんと旅を進めるに連れて、全く違ってしまったのです。琵琶湖をご存知ですか、もちろん話には聞いていました、とても大きいと、しかし、この目で見たその大きさは、もう向こう岸が見えず、その途方もなさに驚くばかりでした。これから通ります中山道の旅人の多さや、木曽川の鰻や鮎などの食事や街道の美味い物の多さにも驚きました。私は旅を通じて自分の了見の狭さを考えさせられました。しかし、秀吾さんはありのままを受け入れろと諭してくれました。見聞の狭さを嘆くより、本当のことを知った事を分かち合える方が良いではないかと。」「まぁ、兄上がそのようなことを」「はい、ですから小夜様もこの旅をお楽しみ下さい。それから秀吾さんはこうも言いました。急ぐ旅ではない、晋助が逃げるわけではないからのぅと。」また晋助の名前を出されて小夜は顔が火照るが、喜助に揶揄われているのが憎らしくなり、「もうっ。」と行って二の腕をつねった。喜助は「痛てててて、」と言って苦笑いで頭を掻いた。小夜は、そうだ私もこの旅を楽しもうと心に決め、歩みをゆるめた。
旅は中山道から千石街道を繋いでいくが、太田、倉賀野、軽井沢、塩尻、松本、穂高から沢渡村へと続く道を七日かけての旅だったが、小夜様は疲れも見せず、しっかりとした足取りで歩き通した。途中、力餅(あんこを絡めた一口大の餅)や、お切り込み(生麩を季節の野菜と一緒に味噌や醤油で煮込んだ料理)、蕎麦がきや、おやきなどの名物も堪能して、誠にこの旅を楽しんでおられた。喜助は旅にお誘いした事もあり、何かあってはと緊張を強いられたが、小夜様は肝が据わっておられるのか、よく食べ、良くお休みになられた。眠る時など布団に入れば間も無く大きな寝息をついてしまわれるし、食べたいものは躊躇なく食べた。ついでに言えばよく笑い、よく喋った。それは喜助にとって、お誘いした甲斐があるという事でもあるがその旅も間も無く終わる。「あの丘を越えて林に入ると我らの庵です。」喜助はつい先だっての自分の事を思った。京より旅をして、この丘を越えれば晋助さんに会える緊張や昂ぶりを抑え切れなかった事を。今、小夜様の横顔にはわずかな緊張感と喜びが溢れている。
小夜は、喜助の言う「林に入ると我らの庵です。」の言葉に緊張が跳ね上がった。とうとうあの人に逢える。嬉しいような、恥ずかしいような、身をくねらせたくなるようなこの感じはどうだろう。考えても、思い出しても身体が熱くなる。林の中は木陰で程よい風が吹いていて火照った首筋にここちいい。林を抜けると小さな掘立て小屋があった。喜助が「」晋助さん、秀吾さん、ただいま戻りました。」と声を張り上げたが何の返答も無かった。二人は荷を下ろし、薬草畑に向かったが、そこにも誰もいなかった。喜助は「うぅむ、どこに行かれたのおだろう、薬草採取か、薪拾いか、はたまた橘屋さんに行かれ、行き違ったのだろうか。」などと、ぶつぶつ独り言を言っている。小夜は「まぁ、そのうち帰ってくるでしょう。その前にこの辺りをご案内いただけませんか。」喜助は「ご案内すると言うほどではありませんが、早速。この薬草畑には12種類ほどの薬草が植わっております。この小さく白い花がセンブリです。神無月の初めごろに花を咲かせ、霜月には種を着けます。今、花が咲いているときに採取することもできますが、種を付けて地面に種が落ちるまで待たなければなりません。そうでなければ絶えてしまいます。我らは種を取りこのセンブリが育つ素地を作り、育て、薬とします。薬草によって環境が違いますので、皆さんと工夫しております。例えばこのセンブリは日当たりが良く水はけのいい斜面に生えております。ですから石を配し、水はけのいい土を盛り、程よい斜面を作り育てております。このように薬草それぞれ・・・」「喜助さん、もういいです。そのような細かい講釈はいずれかの折に。それより他のご案内を。」「・・・そうですか。ではこちらへ。こちらでは我らが日々食する野菜を育てております。あちらへ少し戻りますが。」庵へ戻り「これは、山の水を引き込んだ水場でございます。洗面や洗い物、畑の水撒きにも使います。そしてこの小さな小屋は蒸し風呂でございます。庵から道は三方に別れ、この道は小夜様と私がきた道、こちらは畑へ、こちらの道は代馬岳へと続きますが薪拾いや、その先に川が御座いまして、淵で魚が捕れるのです。兎取りもこの先で行います。」「まぁ、この先に兎の猟場があるのですね、晋助様に伺いました。礫を当てて兎を獲るのでしょう。遠いのですか」「いえ、それほど遠くはございません、四半刻とかからないでしょう、行ってみますか。こう見えて私も晋助さんや秀吾さんほどではありませんが、兎は取りました。小夜様、狩場へ行ってみませんか」「そうですね、いつ戻るとも知れぬ二人をただ待つのであれば兎を仕留め、二人のために兎汁を作っておきましょう。」小石の小袋を腰に付けて二人は狩場に出かけた。森の小道を間も無く抜けるその時「誰だ。」と声がした。開けた草地の向こうに晋助と秀吾が立っていた。前を歩いていた喜助は立ち止まり、道を開けた。小夜の目の前には晋助と秀吾が立っていた。二つの声が小夜の耳に届いた。「小夜、小夜殿」小夜は走り出した。晋助も秀吾も走り出した。刹那、広げた腕に飛び込んだのは晋助の腕だった。額を胸にぶつけ、腰に手を回した。晋助もやさしく抱きしめた。空かしを食らったのは秀吾だった。広げた両手をどうすれば良いのかもわからず、体裁を繕う様に、柔術の準備運動のような仕草で両腕を広げたり閉じたりたりしている。だが、喜助はそれを見逃さなかった。いつもやり込められている秀吾にゆっくりと歩みより、その仕草を真似て、「秀吾さん手持無沙汰のようですね。いやぁ、あのような空かしを食らうとは秀吾さんも受け身すら取れず、すっころんでしまわれましたな、さすが小夜様。」「ぐぬぬぬ、何を言うか喜助め。そろそろお前が帰る頃と思い夕餉に兎汁などと思い、ほれ、兎を獲ってきたが、このわしを愚弄するとはお前の飯は無いと思え。」「そうですか秀吾さん、残念です。私の夕餉がないという事であれば、私も友江様より頼まれた特別な伝言をお持ちいたしましたが、それは無かったことといたしましょう。」「あはははっ。」晋助と小夜の笑い声が響く「兄上、喜助さんは本当に婆婆様より伝言を授かっておられますので、お許しを。」晋助が「小夜殿の兄上は絵にかいたような負けず嫌いであるからな、小夜殿の空かしが相当答えたのであろうな、これを治めるには小夜殿が詫びねば収まりますまい、いかがですか。」「これは兄上、気を持たせたうえに恥をかかせて申し訳ございませんでした。しかし兄上、この小夜が兄上の胸に飛び込むことがあろうとお思いですか。笑止な。天地がひっくり返っても御座いませんぞ、決して。断じて。金輪際。」晋助も喜助も涙を流して笑った。喜助などは引き付けを起こしそうなほど腹を抱えて笑った。秀吾も笑い出した。四人の笑い声が夕暮れの窪地にこだました。
