「ああ、いい風呂だった。やはり風呂に浸かると生き返るな」「まったく、まったく。わしらの庵にも風呂があればいうことは無いのだが・・・」「何をその様なぜいたくを言う。風呂など無くとも体を拭けばよいのだ。」「晋助、お前はそう言うが冬の寒い日など山仕事を終えた体は冷え切って、節々が固まったようになる、そんなときに庵に暖かい風呂があれば身も心も溶けると言うものだ。なぁ喜助。」「確かに、寒い日などは風呂に浸かれば気が緩みますが・・。あの、その金子。十両では足りないでしょうか。皆様のお役に立てるなら、お出しできますが。」晋助は身を乗り出して「喜助、その十両はいかが致した。」「怪しいお金ではございません。奉公でいただいた給金を少しずつ貯めたものでございますので、お使いいただいても何ら差し障りはございません。」秀吾は嬉しそうに「それは渡りに船。ありがたいのう晋助。」「何を言う秀吾。喜助が汗水垂らして働いて、爪の先に火を灯すようにして貯めた金をわしらが使えるわけがなかろう。」「良いてはないか、喜助もああ言っておるのだし。」「ならぬ、ならぬ、喜助が良しとしても、わしの気持ちが許せんのだ。」「はぁ、わしらの風呂が・・」秀吾は大きなため息をついて項垂れた。「秀吾さん、私も残念です。」と喜助も残念がった。「そや晋助さん、蒸し風呂やったらお金かけんとできますやろ。小さい小屋立てて、古い鍋かなんかで石焼いて薬草置いて、水かけたら蒸気で蒸し上がりますやろ、それで外の冷たい水浴びたら気持ちようおますやろ。」皆、女将の言う事を想像してみた。「うむ、それは良い、それならば金をかけずとも出来るであろう。なぁ晋助。」「ああ、帰ったら早速取り掛かろう。しかし女将さんはどんな事でも知恵が働いて、頭が下がります。本当にありがとうございます。」
「晋助、京へはお前が足を運ぶのは良いとして、足利には便りを出さんのか」秀吾の問い掛けは、もっともな話だ。「うむ、出さねばなるまいが、しかし、飛脚も御足がかかるからのう借金も返済しなければならんし、足利は来月といたそうかのう」「晋助さん、私ら女も好いたお人の便りを指折り数えて待ってますのよ、借金は後回しで手紙を出しといた方がええんとちがう。」「いや、金が無いわけではないが、何があるかわからぬゆえの策だ。」「そやけど・・・」「唐突に喜助が、その役目、私がお届けしてはいけませんか。」「・・ありがたい話だがお前を足利へやる程の金子は無い。」「それこそ私の金子で参ります。皆さんの役に立ちたいのです。どうか、お願いします。」喜助の目は真剣だった。秀吾も「わしも小夜に二人のことを祝いたいと手紙をしたためねばならんしな。」晋助は「兄上、二人のことをお祝い頂けるのですね。兄上!」「何を急に猫撫で声で兄上などと晋助は!けしからん。」秀吾はぷいっと向こうを向いてしまった。「兄上、なぜそんなに怒って居られるのです。二人を祝っていただけるのでしょう?さぁ、早う帰って手紙をしたためねば。喜助、旅の金子は折半じゃ。頼めるか?」「お任せください」「ならば早う、この兄上の機嫌を何とかしてくれ。」喜助は困った顔をして、お詩乃は大笑いだ。
三人で、小屋の隣に風呂小屋を作った。首尾は上々で、完成した蒸し風呂に早速三人で入ってみた。焼いた石に桶から水を掬ってかけると蒸気が立ち昇り、小屋の中を熱くした。簡単な腰掛けを作り、そこに座ってじっくりと汗を流す。四半刻ほどでたまらず外へ出て、引いてある山水を頭から浴びる。外にも腰掛けをおいて更にしばらく風に吹かれてみる。腰に手拭いだけの姿で三人は目を閉じていたが、「蒸し風呂がこれほど気持ちがいいとは思わなんだ」「わしもそうじゃ晋助。山水を浴びた後の惚けるような陶酔感は、どうじゃ、たまらんのう。」喜助も「誠に。小屋の中は熱くて息をしておる鼻の奥が火傷をするのではないかと心配しましたが、外へ出て水を浴びた後の開放感は格別でございました。」「そうか喜助、格別であったか、ならば本当に良かった。・・・所で秀吾、手紙は認めたか。」「うむ、書けておる、小夜と婆婆様へ。今の、わしの有り様と小夜への祝いの言葉を・・・」「兄上などと呼べば、またお前は怒るだろうが秀吾、本当にありがとう。」秀吾は照れくさそうに「そんな事は良いが晋助。喜助をいつ足利へやるのだ。」「わしも手紙は認めた。喜助の旅支度が整えばいつでも良いが。」喜助も「私はいつでも出立できます。あとは詳しい経路をお聞かせいただければ・・」「では明後日の出立としよう。」三人は各々袖を通し、帯を締めた。
その朝、晋助、秀吾、喜助の三人は、山の庵を出発した。橘屋へ薬を卸しに行くと言う名目で喜助を送りにきた。「おはようございます。沢渡村の晋助でございます。」「いらっしゃい。三人とも奥へどうぞ」女将について奥へ向かった。「喜助さん今日、足利へ出発でしたね。」「はい、この後参ります。」「旅の道中、色々ありますやろうから気を付けてね。」「はい、ありがとうございます。」「なんや、いざ出発いうたら、変な男に絡まれへんやろか思たり、お腹が痛くならへんやろか思たり、いらん事考えますな。」「まぁ、しかし誰とて一人でいる事や、遠くにいれば、元気だろうか、困りごとは無かろうかと心配になるもんだ。」「ええっ、秀吾さんもそんなこと思うんですね。」「わしを何だと思っておるのだ女将、」晋助が「いや、女将さん。秀吾はこれでなかなか心配性ですぞ、昨日もそれこそ、”喜助、腹痛の薬は持ったか、草履の予備は持ったかと、世話を焼いておった。」「まあ、秀吾さんもええとこありますな。」「旅を進めたのは、わしだ。女将の言う通り何が起こるかわからん。備えあれば憂いなしというだけだ。」晋助は「さあ、喜助。今の話ではないが道中、気を付けて行ってまいれ。」「わかりました。ではこれにて失礼します。」喜助は一人廊下に出て、障子を閉めて表に向かって歩き出した。「見送りはええんですか」「薬の卸もあるゆえ、見送りは無しと言うておいた。」残った三人は、薬の台帳を眺めながらも、喜助の旅を案じた。
小夜は懸命に看病をしていた。婆婆さまは、もう、そう遠くないうちに息をひきとるであろう。夢うつつの中で兄、秀吾の名を呼んでいる。粥も、ふたくち、みくち口にするともういいと匙を置く。仕事から戻ったら息を引き取っていたと言うような事がもう現実となりそうで怖かった。しっかりせねばと思う反面、誰かに助けて欲しいと思う事がある。それ程、婆婆さまの状態は切迫したものになってきた。覚悟は出来ていた。しかし、婆婆さまの遺髪を兄上に届けるまでは息を吐く事はままならない。婆婆さまの最後はどの様な在り方が良かろうと思案するが判らない。
「御免ください、夜分に申し訳ありません。こちらは直江様のお宅でしょうか?」表から男の声がする。小夜は戸口の前に立ち「どちら様でございますか。」私は松本藩料沢渡村から参りました喜助と申します。直江秀吾様と晋助様より便りをお持ちしました。小夜様及び友江様はおいででしょうか。」先程まで考えていた事の答えがやってきた様だ。兄上の名と晋助様の名を告げられただけで心臓が跳ね上がった。「お待ち下さい。ただいま開けます。」扉を開けると、まだあどけなさは残るも、佇まいの凛とした青年が立っていた。「私は喜助と申します。訳あって晋助さんと秀吾さんと共に暮らしております。その何と言いますか・・・」「喜助さんと申されましたか、とにかく中にお入りください。」喜助は扉を開けたその人を見て、正直驚いた。とても美しい人だった。これが、秀吾さんの妹ぎみにして、晋助様が心を通わせた小夜様か。比べてはいけないが、お雪様とはまた違う、小顔の目鼻立ちの整った。芯の強そうな人だった。「喜助さんはお一人でここまでいらしたのですか。」「はい、なにぶん秀吾さんも晋助さんも忙しく立ち働いておりまして、冬が来るまでに整えておかねばならない事が多く御座いますので、私が代わりに参りました。「まぁ、そうですか。狭いですが、とにかくお上がり下さい。促されるまま上がり込んだが、囲炉裏の隣に通じている部屋には布団の上に老婆が休んでいた。呟いた。「・・・友江様ですか。」「はい、そうです。」「具合のほどはいかがですか」「・・・もう長くはないと」「そうですか。晋助さんや秀吾さんよりお薬をお持ちしましたが、いかがいたしましょう」「もう、食事があまり進みません。」「小夜様。私に友江様をお見せいただいてもよろしいですか。」「それは構いませんが・・・」「では。」と言って喜助は友江の傍に膝をつき手首の脈をとった。その脈は悲しいほど弱かった。「小夜様、友江様を起こしてよろしいですか。それとお手伝いいただけますか。」友江をゆっくりとおこし、首と背中を支えた。喜助は背中に手を添え気を発した。ゆっくりと、やさしい気を発して行くと、巡り始めたのか青白かった頬に血色が戻ってきた。「喜助さんも体術の気をお使いになれるのですね。」「私は晋助さんや秀吾さんには及びません、初歩的なことが出来ると言う程度です。」「兄も使えるのですか。」「はい、使い手と言っていいでしょう。もともと素地があったので、晋助さんにご教授頂いて向上したと聞いております。私など遠く及びませんが。」「晋助様も婆婆さまに気を流しておられましたし、私も肩が凝ると申し上げたら、手を当てて立ちどころに楽にしていただけました。」肉汁を加えた粥を友江に与え、休ませた。喜助は小夜と共に夕餉をいただき、落ち着いた所で、預かった手紙を二通手渡した。手紙に視線を走らせた小夜は、小さく「えっ」と言ったり、「本当に」と呟いたりしていたが「喜助さん、誠に晋助様はお咎め無しの処分なのですか。」「はい、誠のことです。」それから喜助は晋助が京を去った二年余りの出来事を話した。先日、秀吾さんが京に現れ、共に松本藩領の沢渡村に行き、再会を果たした事まで話した。小夜は「あの・・聞き難い事なのですが、兄の手紙では詳細が判らぬ故に、お聞きしますが・・」「小夜様のお聞きになりたい事は、お雪様の事ではありませんか。」「はい、そうです」「その事は晋助さん、秀吾さんのお二人からも託っております。ちょうど秀吾さんの京案内をしておりました所、お雪様に出会いしました。翌日お時間をいただき、今の松本での暮らしを秀吾様がお話しされました。晋助さんが料理をなされるとお伝えしたところ、大層驚かれ、食べてみたかったと仰られました。しかし、いつお戻りになられるかも判らぬ晋助さんを待つ訳にもいかず、ご両親の勧めで嫁に行かれると仰られました。秀吾さんが考え直してもらえぬかと仰いましたが、きっぱりとお断りになりました。そして晋助様のお幸せをお祈りいたしておりますと、お伝えくださいと告げられました。晋助さんには申し訳ないのですが、その時のお雪様は誉高き人と言うに相応しい有りようでした。その事を晋助さんにお伝えした所、やはり涙を流され、わしもお雪幸せを祈らねばならぬなぁと言うておられました。」「そうですか、私はお会いした事はありませんが、お雪様が決別という選択をされたことには敬意を払いたいと思います。」「小夜様、だからと言って直ぐに小夜様という訳にもいかず、晋助さんは悩んでおられました。それに今住んでいる庵は決して住みやすいとも、綺麗とも言えず、まだ借金もございますので、重ねて、悩ましい所ではございます。」小夜は「私は住むところなど・・」と言ったが、小夜も婆婆さまを置いてはどこへも行くことは敵わぬと思い、やはり悩ましい。「私などが言うのも何ですが、元気を出して下さい。どんな事でもお手伝い致します。」小夜はこの心優しき青年を好きになった。控えめながら、好ましく思うのでありました。
翌日も友江様に気を当てて、肉汁を加えた粥を与えた。すると朦朧としていた意識がはっきりするようになった。友江は小夜の問いかけに、「大丈夫」だと言った。更に喜助を見て「こちらは、どなたですかと尋ねた。」小夜は「兄上や晋助さまとご一緒にお住まいの喜助さんです。」友江は涙を流し、何度もありがとうと言った。喜助は「友江様に、秀吾さんよりの手紙です。」と言って手渡したが、「小夜、呼んでおくれ」と言った。早速「婆婆様、お加減はいかがですか。いただいた手紙、拝読致しました。わしの事は心配に及びません。晋助とこの手紙を託した喜助と三人、楽しくやっております。小夜と晋助の事は承りました。なに、わしは武家の女子が商人に嫁ぐ事など何とも思っておりません。婆婆さまのお許しがあれば、二人の幸せを祈るだけです。それと、どうかわしが戻るまで、もうしばらく気持ちを強く持ってお待ちください。今となってはわしの考えが足らぬゆえにこのような事になり、婆婆さまんにはお詫びのしようも御座いませんが、あと一年でございます。なにとぞご自愛頂き、お健やかにお過ごしになる事を祈るばかりでございます。」と手紙は結んであった。友江様も小夜様も涙を流しておられた。喜助ももらい泣きしたが、友江は気を取り直して、「喜助さん、ありがとう。最後に秀吾の手紙を届け、読み聞かせてもらって、もう思い残すことは無い。秀吾には、お前は兄として、一人の人として仁義を果たした。なにも臆することは無い、胸を張って前を向いて歩めとお伝え下さらんか。」「友江様、それは秀吾さんに直接お伝えしてはいかがですか。」「そうしてやりたいが、この婆婆にはもうその時が残っておらん、喜助殿には申し訳ないが、年寄りの最後の頼みと思うて伝えてやってくれ。」「・・・はいっ、この喜助、友江様の言葉しかと承りました。拙い事ではありますが必ずお伝えいたします。」それを聞くと友江は横になり、笑みを浮かべて、ありがとうと言った。そのまま静かに眠ってしまったが、もう友江が目を覚ますことは無かった。
