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元禄 山野流浪紀 その十六 匂

  1. 私小説
2026/07/24

今日も護衛をすると言って小夜について行き仕事場まで送り届けた。晋助は「今日は秀吾や世話になっている薬種屋に土産を買って帰るので、町を歩く」と告げていた。友江も体の具合が良いから薬は自分で飲むと言ってくれたので任せた。だが、晋助本来の目的は廣瀬兵部だった。表通りから一つ曲がれば、人気の無い武家屋敷が並ぶ通りに入る。更に二つ程角を曲がると、外塀の上に手入れの行き届いた欅の大木が枝を広げている。門の表札には廣瀬とある。表札をちらと盗み見るようにして通り過ぎ、次の角を曲がった。曲がった通りには誰もおらず、周囲を警戒して一息ついた。晋助の格好は薬売りそのままの出で立ちだ。気息を整え、もう一度もと来た角を折り返して廣瀬の門の前に立った。脇の御用出入口で声をかけた。抑揚をつけて「まぁつもとの藩領から参りましたぁ、薬売りですけんど、お武家様の家では置き薬はいらんかね」と声をかけた。しばらくすると扉の内側から「何者だ」と声をかけてきたのは、しゃがれただみ声だった。さっきと同じように薬売りだと告げた。扉が開いて、中から髪が真っ白で薄くなったその髪をようやく髷に結い上げたと思われる老武士が顔を出して、「薬屋か、どこから参った。どんな薬を扱っているか」と次々に詰問をして一通りの質問を終え「良いか、これから当家の当主となられる方に会っていただくが、少々その具合を見て薬を処方してほしい。そしてこの家に来た事、見た事、すべては他言無用だが、良いかの」 「お武家様、当たりめえでごぜえます。その事は誰であっても言ってはならねえこと。何があっても申しません」「良かろう、中へ入れ」そう促されて中へ入った。石畳の続く庭を通り、玄関まで来ると白髪の男は、ここで待てと言って中へ入った。玄関に負けず劣らず、立派な屏風が目を引いた。戸口で待っていると、先ほどの老武士が庭の脇から顔を出し、「こちらへ参れ」と声をかけてきた。男についてゆくと濡れ縁の奥の部屋の障子が開け放たれ、布団に男が横たわっていた。「繰り返すが他言無用だぞ」 「承知」 「あがれ、こちらへ参れ」晋助は布団の傍まで来た。驚いた表情を作って「側用人様、当主様はいかがなされました。」と言うと白髪の老武士は嬉しそうに「側用人などとめったなことを申すではない」と言ったが、満面の笑みを浮かべ「昨日、何者かに首を打たれた様で、言葉も、体を動かすこともできぬようだ」「見せていただけますがと言って、伏せっている男を横向きにして、首の後ろを見た。首の後ろには青あざが出来ていて、目はうつろだ。晋助は白髪の武士に「首を冷やしていただけますか。それから、この症状はただ事ではございません。お医者様のお見立てをお願いします」と告げた。血相を変えた老武士は廊下を走り、奥に向かって声をあげている。晋助は兵部の横顔を見て、更に首の後ろの急所を親指で強く押した。「うぶっ」と兵部から音のような声がした。走ってきた老武士は水桶と手拭をもって戻ってきた。「医者は手配した。」首を冷やすのは手拭でよいか」と聞いた。「はい、硬く絞って首の下にあててください」と言うと老武士はそっと頭を持ち上げて濡れ手拭を添えた。「あの、私にはどうすればよいかわかりません。痛み止めの薬と薬草をすりつぶした湿布ぐらいしかございませんが、お武家様いかがいたしましょう。お医者様に薬をいただいた方が適切かと思います。」 「そうか、おぬしでは手の施しようが無いか、ならばこのまま引き取れ。先ほど申したように他言無用だぞ」と念を押された。廣瀬の門をくぐって表へ出た晋助は、ほくそ笑んだ。そして「あの様子では当分起き上がれまい。」と一人呟き、居並ぶ武家屋敷を後にして街道へ出た。土産を見繕って、昼は蕎麦を食した。仕事終わりの小夜をやはり柳の下で待っていると、申の刻に出てきた。晋助を見つけた小夜は”ぴょん”と兎のように跳ね、駆け寄ってきた。「随分お待ちになりましたか」 「それはもう、今は今かと何度も戸口を見ておったら、その戸口がそっぽを向いたようでした」 「まあ、戸口がそっぽを向くとはどのような事なのですか」 「仕事場の戸口は私を冷たくあしらっている様で、一生開くことは無いのではないかと思うほどでした。」 「晋助様・・・そんな訳はございませんでしょう。この、たわけがぁ!」 「??ええっ…」「いやいやいや、急に真顔になられて、ええって。晋助様が冗談を申すから私も御付き合いしておりますのに、ほったらかすのはおやめ下さい。」晋助は後ろへ飛びすさって体術の構えをした「もう、私の知っている小夜様ではありませんぞ、さては、小夜様の皮を被ったムジナであろう、皮を破って出て参れ・・・うはっはっは」晋助は笑い出した。小夜も堪えきれず笑い出した。大声で笑う二人を遠巻きに人々が見ている。それに気づいて晋助は小夜の手を取って走り出した。しばらくして足を止め、また笑い出した。ひとしきり笑うと、そこにしゃがんで夕暮れにきらきら光る川面を眺めた。楽しかった。その時間が楽しければ楽しいほど明日を思うと苦しかった。笑った、泣いた、怒った、その感情の一つ一つが脳裏に浮かぶ。しかし、もう旅立たねば・・・

小夜はそっと晋助の横顔を見た。遠い目をして思いを抱いているようだが何をかは、分からない。急に晋助は立ち上がり、また小夜の手を取って無言で歩き出したが、もう一度立ち止まり手を離すと、自分の右手に手拭を巻いて、また手を取った。小夜は、晋助様は昨日の手汗を気にしているようだと思い、また嬉しくなった。その丘を越えれば、屋敷が見えるところまで来ると、晋助は立ち止まった。振り返り小夜を見つめた。夕暮れ時の静けさの中で、どうにもならない感情が込み上げ立っていられないほどになり、心臓がどきどきと打つ。抱きしめられ唇が重なる。息が出来ないほどに口吸いがなされ、もう落ちていきそうだった。唇が離れても強く抱きしめられたままだった。小さな声で「小夜様はいい匂いがする」と言われたが、遠くぼんやりと響いている様で、もはや小夜は溶けてしまいそうだった。

晋助は頭の中で、思いを伝えねばと・・・だが言葉など何も見つからなかった。あるのは明日ここを離れることだけだった。その焦燥感が足を止め、その行動に走らせた。強い感情を小夜にぶつけた。強く抱きしめた。激しく唇を重ねた。わずかな時間だが、その全てを欲しいままにした。後悔などみじんもなかった。いや、むしろその全てを自分のものにしたいとすら思っていた。満足と不満足のあいだで、思いやりや慈しみだけが踏みとどまらせたに過ぎない。小夜はいい匂いがした。その臭いは男を昂らせたが、辛うじて収めた。足取りの覚束ない小夜の手をまた掴んで歩いた。「小夜殿、感情に流されてしまったことは謝ります。ですが後悔はしておりません。敢えて言えば言葉は見つかりませんでした。何と伝えて良いのか適切な言葉を持ち合わせておりませなんだ。こんな言い方はご無礼かもしれませんが・・・欲しかったのです・・・小夜殿が」

小夜は濡れていた。こんなにも濡れてしまう事があるのかと思うほどに。重ねた手と手拭いはぐっしょりと重いほどになっていいた。晋助は感情に流されたことを、ことさら悔やんでいたようだが、好きな男に、赴くままに扱われたことは一人の女として誇らしいほどだった。言葉を持ち合わせなんだとも言ったが、必要は無かった。晋助が私を欲しがった。晋助の温もりこそが私の望んだものだった。

家の前まで戻ると不思議と昨日のような焦りも感情の昂りも無かった。有り体に言えば”思いを寄せられている”という事が心を平穏にさせている。互いに向き合い「さあ夕餉の支度にとりかかりましょう」と言うと、晋助も笑顔で「はい」と返事をした。扉を開けて「婆婆さま、ただいま戻りました」の声に続いて晋助も「友江様ただいま戻りました」と発した。友江もすっかり元気を取り戻したように、「まあまあ、小夜もよう励まれました。晋助殿もご苦労様でしたな」の声に、三人仲良く夕餉の支度を始めた。

夕餉を終えると友江は一度部屋に戻り、一通の手紙を携えて晋助の前で「これを秀吾に渡してください。」と文を差し出した。「確かにお預かりします友江様」友江は「それから」と言って”ちらり”と洗い物をする小夜を確認して「晋助殿・・・私はもう長くはありません。ですが、秀吾の処払いは、あと二年ございます。それまで命を長らえることはできますまい。晋助殿、今すぐにとは言わぬが、小夜を、小夜を頼みます。どんな所でも、どんな有様でも構いません。傍に置いてやってください。このとおり」と頭を下げた。「お待ちください。友江様はどんな所でも、どんな有様でもと仰いますが・・・私は今の荒家に小夜殿を迎えたくはありません。いま、友江様の満足する返事は出来ませんが、出来うる限りの事をいたします。それはお約束します。」 「わかりました。それだけ聞けば、この婆婆はもう思い残すことはありません。後は健やかにお迎えを待つだけです」そこへ小夜が洗い物を終えてやってきた。「婆婆さま、晋助様、何のお話をなされておいででした。」 「晋助殿に秀吾への手紙を託しました。それからもう一つ、晋助殿に願いも託しました。良いお返事をいただけたので安心しました。さて、婆婆はもう休みます。二人共ゆっくりおやすみなさい。」そう言って友江は自室に戻った。小夜は「婆婆さまは晋助様に何の願いを託されたのですか。」 「それは言えません。」 「良いではないですか教えてくれても」 「うむ・・・小夜殿の事です。これ以上は言えません。後は私が示さなければならぬこと、ことばでは語れません」 「なにかはわかりませんが、晋助様がそう仰られるなら、お待ちしております」薄々感づいているのか、頬を赤くしている。「小夜殿、私からもひとつ。もう当分、廣瀬兵部は近づいては来ません。ご安心を」 「何かなさったのですか」 「いえ、様子を見てきただけですが、しばらくは動けますまい。安心して仕事場へ出かけられませ」 「どんな様子かお聞かせください。」晋助は今日の出来事を事細かく説明した。「その老武士に顔を知られております。証拠やつながりは明らかにできませんでしょうけど、明日は早くに出立します。今夜はこれにて休みましょう」晋助が立ち上がると小夜も立ち上がり「あの」と言って、小夜はもじもじしている。俯いて小さな声で「ぎゅっと・・して」と言ったきり下を向いている。晋助は一歩前に踏み出し、小夜を引き寄せ、抱きしめた。小夜の両手が腰と背中に周る。しばらくそうしていた。晋助は何と声をかければ良いのか分からなかった。ただ先の事を考えても何も見えず、漠然とした先行きがあるだけだが、この小夜を何とか幸せに出来ないものかと思いが募るばかりだった。