大蓮華山は信濃(長野)越中(富山)越後(新潟)にまたがる三国境。その朝、秀吾と二人で見上げたその山は三つの頂を天に突き上げ、堂々たる佇まいで鎮座おわした。「晋助、わしはこの山を毎日見ておるが、誠、美しいのう」 「わしも朝に夕に見るが、いつ見ても、どう見ても美しい。月夜に照らし出されたその姿すらも、まっこと惚れ惚れするようじゃ」 「いつ登れるかのう。つい先だっても役人が三国境に参っておったが、越中や越後の役人も見分に来ておるのだろうな」 「役人の事はどうでもよい。あの頂に立つことは、この旅が終わったら、いつでも良いではないか秀吾。その胸の内に秘めておけ」 「ああ、そうじゃな」二人は急いではいなかった。沢渡の村に住む久蔵に黒彦を預け、いくらか金子を渡しておいた。久蔵には要らないと言われたが、貰ってくれと頼みこんだ。長くとも二十日で戻ると伝えて村を後にした。松本城下までは共に歩き、秀吾は先に中山道に向かった。晋助は橘屋に向かい、暖簾をくぐった。いつものように「沢渡村の源蔵の使いで参りました晋助です」告げた。番頭の惣助が顔を上げたが、きょとんとしている。「えっ、晋助さん?」 「番頭さん、おはようございます」 「いやいや、見違えましたよ。きちんとした旅装束に、御髪まで整えて」 「あはは」と照れたように笑うしかなかった。「さあ、奥へどうぞ、女将さんがお待ちかねですよ」御店の丁稚に案内されて奥へ入った、襖の前で丁稚が、「女将さん、沢渡村の晋助さんが参られました」と声をかけた。襖の奥から「お通しして」とに声に、丁稚はゆっくりと襖を開けた。座敷の廊下で両手をついて、「沢渡村の晋助です。出立のご挨拶に参りました」と挨拶をした。「まあまあ、晋助さん、待ってましたよ」顔を上げた晋助は「さあ、中へどうぞ」と促された。そうして頭の先からつま先までを眺めて女将は「ああ、目もあやなすお姿」と言ってうっとりと晋助を眺めた。晋助は「これも、女将さんのお陰でございます。先ほど街道で秀吾と別れ、こちらへ参りました。秀吾もどこからどう見ても一端の信濃の薬問屋でございましたよ」 「あら、そう。秀吾さんの姿も見てみたかったわ」 「あい、すいません。秀吾は京へ参りますので、日数が多くかかりますゆえ、旅を急ぎました」 「ええっ、京へ」「はい、秀吾は京へ、私は足利へ参ります」 「私も京へ行きたかった。こう見えて私、京の生まれなのよ」 「本当ですか、京言葉の訛りがないから、てっきりこの松本の御生まれかと思っておりました」「帰ってきたら京の話をたくさん聞かせてもらうわ。けど、こんな話をしていたら遅くなってしまうから・・・はい、これ」お詩乃は包みを差し出した。「確かめてちょうだい」 「はい」お詩乃が差し出した金子は晋助が頼んだ金額よりも多かった。「女将さん、お願いした額よりも多いのですが」 「いいのよ。いくらあっても困りはしないでしょ。返してくれたらいいんだから」晋助が何か言おうとしたがお詩乃はそれを手で制して「気を付けて行ってらっしゃい。今日はお見送りはしないから」お詩乃は立ち上がり、次いで晋助も立ち上がった。廊下でもう一度「行ってらっしゃい」とお詩乃は告げて廊下を反対側の方へ歩いて行った。晋助はその背中に「ありがとうございます」と告げ深々と頭を下げた。表に出て歩き始めた。もう、日は高く登り、風がそよいでいた。
秀吾は中山道を西に向かって歩いていた。中山道は旅姿の者が多く、速足の者やゆっくりと歩く者、老若男女、様々な者たちが行き来している。街道沿いの塩尻で最初の宿をとる。晋助からは「秀吾、調子に乗って酒など飲んで、物取りに身包み剥がれるようなことがあってはならんぞ」ときつく言われている。「分かっておる」と明後日の方を向いて返事をしたものの、内心、痛いところをついて来よると思った。まあ、旅の初めだ、今夜はおとなしく寝るかと思い定め、今度は晋助の事を思った。あ奴は奉公人の丁稚が暴漢に絡まれ、匕首を抜いた相手をあの体術でやり込めたのは良いが、その匕首が誤って脇腹に刺さってしまったと言うておった。それでその場を丁稚を連れて逃げたが、家族や御店に迷惑はかけられないと、家を飛び出したという話だった。そういえば許嫁がいたと言っていた。あ奴はもう破談になっておろうと寂しげに笑っていた。晋助からは何通かの手紙を託されたが、その一通が、その許嫁、お雪へのものであった。酒を飲んだ時に晋助は「その名の通り、雪のように色の白い見目麗しい娘御だ」と呟いたが、やはりその話になると元気が無く、寂しげであった。秀吾は、わしが行ってどうにかなる事でもないが、何とか晋助の力になれればと思わずには居られなかった。たった一つの出来事が一人の男の人生を変えてしまった。晋助は後悔はしていないと言ったが、許嫁や親御殿の事を思わぬ日はないだろう。そんなことを考えているうちに眠りに落ちた。
晋助は急がず歩いた。一歩一歩、足利への歩みを進めていた。これから秀吾の妹御に会うが、活計をどう立てているのやらも分からず、婆婆様を抱えた生活をどう過ごしておるのかは、いささか不安を通り越して、大きな問題であるように思えた。既に秀吾が沢渡にきて一年、その間年寄りを抱えた娘御が一人、活計をどうして立てているのかと、考えれば考えるほど不安に満ちた。しかし、考えても始まらん。とにかく秀吾の御里に参って妹御の・・・そう、小夜と申した。会って託された手紙を渡し、できる限りの事をして帰らねば。しかし、何ができるのだろうと、また堂々巡りに思案することになった。
秀吾は予定通り、塩尻から薮原、落合、柏原、大津を通り、三条大橋を渡って京に入った。人通りの多い茶店に入り、茶屋の娘に「桔梗屋という薬種屋を知らんか」と聞いてみた。「はい、桔梗屋さんやったらよう知ってます。この先の大きな通りが河原町通り。それを右に曲がってまっすぐ北向きに行けば二条通にぶつかります。その二条通りを左。西に進めば薬種屋さんが並んでますから、その中でも桔梗屋さんは大きな看板出してますからすぐわかりますえ」と教えてくれた。茶屋を出て歩いて行くと、娘が教えてくれたとおり、その通りには薬屋が並んでいた。そこにひと際目を引く大きな看板に桔梗屋と書いてあった。向かいの通りの角からその様子を眺めていたが、客の出入りも多く繁盛している店の様であった。秀吾は、さてどこからどうしたものかのうと思案した。いきなり店に踏み込んで晋助の使い出来たというのもなぁ。それに、ちと、客の出入りが多すぎるとなれば商売に迷惑も掛かろうな。そこに店からひょっこりと奉公人らしき男が出てきた。まだあどけなさの残る顔立ちだが、いい体躯をしている。大きな包みを背に、西に向かって歩き出した。よし、後をつけてみよう。奉公人らしい男は、しばらく行くと大きな通りに出てその角を北に向かって曲がった。そのまましばらく進むと今度は、左に曲がり進んでいった。その通りの両側には立派な家が立ち並びそれまでとは違った趣の有る閑静な邸宅が並んでいた。ここは何だ?京なれば公家でも住んでおるのかとブツブツと独り言をつぶやいていた。そうしてつけていると、大きな屏に包まれた、ひときわ大きな建物に奉公人は入っていった。大きな声で「桔梗屋から参りましたものでございます」と言った。秀吾はやはり桔梗屋の奉公人か。これは好都合。出てくるのを待とう、とほくそ笑んだ。そうしてしばらくの後。「洲斎先生によろしくお伝えください」と奉公人の声がした。門から出た来た奉公人は振り返りぺこりと頭を下げた。そうして、もと来た道をこちらに向かって歩いてきた。秀吾は「もし、御尋ね申す。桔梗屋の御店の方ですか?」距離を取って立ち止まった奉公人はこちらを一瞥して、隙のない面構えを見せた。「はい、そうですが、何でしょう?」「不躾な質問だが、晋助と言う男を知っているか?」奉公人は身構えた。「あなたは誰ですか」「わしが先に聞いている」 「もちろん知っています」 「こんどは私の質問に答えてください」「直江 秀吾と申す」「お武家様ですね。そのお武家様が私に何の用ですか」 「御店のご主人や、奥方様、他に兄上様はご健勝か」「なぜそのようなことを聞かれます」 「ただ知りたいのだ」「・・・お元気でございます」 「おお、それは良かった」 「どうして、お武家の直江様がお喜びになるのですか」 「・・・元気だという事を知らせてやれば、喜ぶ者がいる」「それは、晋助様ですか?」 「それは今は言えぬ。お前がわしを信用しておらんように、わしもお前を信用しておらん。だが、おぬし、名を聞いても良いか」「桔梗屋に奉公しております、喜助と申します」「喜助と申すか、もう一つだけ聞いてよいか」喜助はこくりとうなずいた。「お雪という名の娘御を知っておるかの」喜助の表情がさっと変わった。「あなたは何者なのですか、晋助様をご存じなのではないですか」「よいか、しばらくの間、わしはお前を見ている。お前が信用に値する人間かどうかを見ている。それともう一つ、今日私と出会ったこと、話したことは誰にも言うな」秀吾は喜助に背を向け踵を返して歩き出した。「あの・・」その声は聞こえていたが振り向くことなく道を急いだ。
晋助は街道を滞りなく進み、足利藩領に着いた。秀吾に聞いていた通り、借宿村(かりやどむら)を目指したが、たいして迷いもせずに着いた。そこは、足利藩の中心地から外れ、渡良瀬川の右岸に位置する畑作の盛んな地域だった。農作業をしている男に直江殿の邸宅はどこかと尋ねると、その丘の向こう、とだけ教えられた。畑ばかりの景色で、田んぼは無い。丘に登ると古びた一軒家がぽつんと立っている。家の周りには、あまり手入れがなされていない柘植の生け垣が取り囲み、その生垣の途切れたところには風雨ですっかり朽ちてしまった、小さな門があり、一層みすぼらしさを強くしていた。ぐるりとその家の周りを歩いてみたが、人の気配がない。門の前まで戻り、意を決して朽ちかけた門をくぐり、声をかけてみた。「直江様のお宅でしょうか、誰か居られますでしょうか、直江 秀吾殿の使いで参りました」そう声をかけてみた。奥からくぐもった小さな声で、「はい」と聞こえた。晋助は「お小夜様でございますか」と問うてみた。声の主は「婆婆の友江でございます」と弱弱しい声で答えた。「失礼ですが、こちらへお出で頂けまいか」ごほごほとせき込む声が聞こえて、「臥せっておりまして、ままなりませぬ、ご容赦ください」 「友江様、喋らずともよいので、聞いていただけますか。そのまま、そのままで。私は松本藩領の北にある四ケ庄沢渡村から来た晋助と申します。昨年の春、こちらの直江秀吾殿と出会い、今は一緒に暮らしております。・・・・」と出会いから現在に至るまでの経緯を話した。そうすると、友江は「晋助さん、この様な体で何のお構いもできませんが、そこでは話もまともにできませぬ、申し訳ないのですが、おあがり頂き、わたくしの側までお出で頂けないでしょうか」「よろしいのですか」「恥ずかしながら、茶も出せませんが、どうぞおあがりください」晋助は一つ一つ声に出して、「では、失礼いたします」と言って上がり込んだ。短い廊下を進むと襖の開け放たれた部屋があり、その奥に痩せているからであろう、あまり膨らみのない掛布団の先に真っ白な頭髪の老婆が横たわっていた。部屋の前の廊下で両手をつき、「失礼いたします。松本藩領から参りました晋助と申します」 「さあ、晋助さん、この婆婆の側へ」ゆっくりと、枕元へ進んだ。痩せこけた老婆だった。「友江様、秀吾は今、薬種屋をやっております。主に薬草の採取をやっておりますが、干した薬草を薬研で引いたり、薬種問屋へ卸して、帳面に付けることまで一通りのことは全てやっております。」「そうですか、秀吾は元気にやっているのですね。晋助さんみたいな優しい人と一緒に商いを始めて、自分で活計を立てているのですね。晋助さん本当にありがとう。この婆婆は思い残すことはもうありません。心置きなくあの世へ参れます」「何をおっしゃいます、友江様。秀吾の願いは、小夜様の幸せと、友江様に長生きをしていただいて、もう一度お会いすること。どうか今しばらくの辛抱です。生きる努力を」そのとき、廊下を走るけたたましい音と共に「ばばさまぁー」と怒声の叫び声が響き、襖の前には鬼の形相をした娘が短剣を構えてこちらを見ていた。「なに奴だ、貴様ぁ!婆婆さまに何をしたぁ。生かしてはおかぬぞ」慌てたのは友江だった。「まて、小夜。待つのだ。この方は秀吾の使いで参られた、晋助殿だ。剣を、剣を納めい」大きく怒らせた肩と眉間の皴を落とし、大きなため息を一つ吐いて、握りしめた短剣をだらりと下ろして、娘はその場にぺたりと座り込んだ。友江は「晋助殿、秀吾の妹の小夜です。驚かせて申し訳ない。私の心配をしたと見える、どうかお許しください」と言葉を添えた。
