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元禄 山野流浪紀 その八 望郷

  1. 私小説
2026/05/22

死に絶えてはいなかった。初夏の嵐に雹が降り、移植をした薬草は全滅かに思われたが、根を張っていた薬草たちは、新しい芽を出し、今では青々としている。それでも今年の収穫は見送った。さらに根を張り、花を咲かせ、種を付け、それを収穫して、確実に来年に繋げたい。そういう思いが晋助にはあった。すっかり伸びた薬草を眺めていると「晋助、その薬草は収穫せんのか」と秀吾が聞く。「嵐でダメかと思ったが、今は生き生きとしておる。今年は種を収穫するまではこのままにしておく」 「そうか、お前がそう決めたのなら、それでいい」季節は移ろい、今は盛夏。近くで採取出来た薬草も盛りを過ぎ、より高いところへ行かねば同じ薬草は取れない。山の上にはまだ、たっぷりと雪があり、通り道にようやく雪割草が紫色の花を咲かせている。その後も、橘屋には頻繁に通っている。商売は今まで通りで、何も変わっていないが、女将のお詩乃が、やれ旅支度は進んでいるか。新しい着物を持っていけ、宿場はどこにするのか、足袋は何足持っていくのか、忘れ物は無いかなど、母親のように手を焼いてくる。先日の橘屋の帰りには、「あぁっ、もう。のんびりしてたら、あっという間にその日になりますよ。男の人はこれだから・・・」とせっつかれた。店を後にした二人は、顔を見合わせて「まるで女将が旅にでも出るようだな、晋助」「ああ、まごまごしていたら、私がついて行くと言いかねんぞ、秀吾」「うむ、だが女将のいう事にも一理ある。あまり草臥れた格好でお主の自宅へ赴いて、わしの姿を見れば、さぞや苦労をしているのだろうと思われかねんぞ」「確かにそうだ。そうなるとどんな格好で赴き、どんな生活をしているのかを語らねばならん。どうする?」「分からん」二人は足を止め、顔を見合わせた。「戻ろう」とどちらからともなく言い合わせた。再び橘屋の暖簾をくぐり、番頭の惣吉に声をかけた「番頭さん、誠に申し訳ないが、もう一度女将さんをお呼びいただけまいか」「晋助さん、一体何ごとですか」「いや、申し訳ありません。いま一度女将さんに相談事を聞いていただきたいのですが」「番頭さん、わしも晋助も少しばかり世間知らずであった。それでそのだな・・・」などと、もごもごと口ごもっていたら、奥から女将がすたすたと廊下を歩いてきた。「あら、さっきお見送りしたばっかりでしたのに」とお詩乃もぽかんと口を空いたまま、二人を見ていた。番頭の惣吉が「女将さんに改めてご相談があるそうですよ」と少し冷ややかに言った。

二人は奥へ通され、先の旅装束の相談を始めた。やおら始めたその話は、旅装束から離れ、終始、例えば、例えばとはっきりと言えぬ質問を繰り返し、お詩乃をあきれさせた。「例えば相手の様子を知りたいのだが、何と尋ねればよいかの」「子供じゃないんですから、狸のポンタさんはお元気ですかて聞いたらよろしいじゃないですか」「相手の名前を言うたら、あなたは誰ですかと聞かれるでは無いか」「そんな事は、当り前でしょ。沢渡村の秀吾ですって言うたらよろしいでしょ」「それではいかにもまずい」「秀吾さんも武士でしょ。しっかり名乗ったらいいでしょ!事情があるのは分かりますけど、でもその前に男でしょ。しっかり相手の目を見て話したらどうですか」秀吾は叱られた子供のように首をすくめてため息をついた。晋助は「そうだな、秀吾、わしらは少し警戒しすぎかもしれん。お前は堂々とわしの使い出来たと言えばいい、わしもお前の使い出来たという。さすれば後はこぎれいな格好で出向けば、怪しまれまい」「分かった、そうしよう」その後も細々とした相談を繰り返し、ようやく「さて、暗くなってきた。お暇いたそう」と腰を上げようとしたら「何を言うんですか晋助さん。こんな時間に帰るやなんて、なんかあったらどうするんですか」「いや、しかし黒彦もいるから何とか帰ることはできるので・・・」「ほら、そういうところ!男の人はすぐに何とかなると言うけど、私らにしてみたら、帰りついたかどうか分からないことほど心配なことはありません。今夜はここへお泊り下さい」「いや、それでは」「これ以上は許しません」お詩乃は二人をぎろりと睨みつけた。晋助と秀吾は怖れ慄き「今夜一晩お世話になります」と頭を下げた。その夜は料理や酒肴が運ばれ、女将と差し向かいで酒を飲むことになった。秀吾は途中から、あご芸とでも言うのだろうか、またも女将を笑わせに走った。笑いの渦の中、晋助は疲れと酔いに任せて、笑いながら気を失うのであった。翌朝、喉の渇きに目が覚めた。枕にへばり付いた頭を何とか起こして周りを見た。隣で秀吾が高いびきをかいている。呟いた「ここはどこだ」はっきりしない頭に、晋助は自分が疲れていたことにようやく気付いた。あちこちに錯綜する己の頭を落ち着かせ、思い返してみた。確か秀吾が女将を笑わせ・・・もう考えるのをやめた。考えたところでもう済んだことだ。ふらふらとよろけながら襖を開けてみた。いつも薬草を検分する部屋の前庭だった。何故だか涙が出た。生かされている、ただそんな思いに包まれた。そこへ声をかけられた「昨日はびっくりしましたよ晋助さん。笑ってたと思たら、突然大の字になつて寝てしまわれて、秀吾さんがお布団へ運んでくれて、寝かせてくれたけど、私が大丈夫でしょうかって聞いたら、秀吾さん「晋助は疲れておるのじゃ、って言うて」「・・・いや、疲れているなど・・ただ酔いが回っだけです」「それだったらいいけど」「女将さん、昨夜は泊めていただいて、ありがとうございます。正直に申しまして、私も、秀吾も国元を追われた身。身寄りも何もこちらにはございません。亡くなった源蔵が私を拾い、私が秀吾を拾ったのです。源蔵が私に生きる術を、そして、私が持っているものを秀吾に。と言っても私が秀吾に教えられることなど僅かで、殆どが秀吾の才ですが。それでも今日まで生き延びてこられたのは、周りの皆様のおかげ。取り分け橘屋さん、いえ女将さんには格別にお引き立ていただいた事、お礼の言葉もございません。ただ、いつか私たちの心配事が払拭できれば、後は心置きなく、生きていけます。この旅が終われば、すべてをお話しいたします。どうか、今しばらくお力添えをお願いします」「こっちこそ、ありがとう。待っているわ。晋助さん秀吾さんが晴れ晴れした気持ちでなって、帰ってきてくれたら、それで良いんだから」お詩乃はそう言って微笑んだ。その時「ああっ良く寝た」とガサガサした秀吾の気の抜けた声が耳に届き、晋助とお詩乃は笑い声をあげ、二人の声が重なって静かな庭に溶けた。

空は高く、空気が澄んで、秋の気配が漂ってきた。昼の日差しは、まだ射るような強いものだが、朝晩はとても過ごしやすい。旅の準備は整ってきている。路銀に関しても、そう多くの金子を借りずとも済みそうだと晋助は言う。秀吾は朝から畑に出ていた。春に植えたじゃがいもが、盛られた畝の上からでも大きく育っているのが分かる。晋助もそうだが、秀吾もまた、旅から戻った後の生活を考えたとき、今のうちにできる限りのことをやっておかねばと、日々精を出している。秀吾は芋を掘り出した。立派な芋が出来ていた。「芋ずる式とはこの事だな」と独りごちた。昨日は淵でとれた岩魚を煙でいぶして軒先に吊るした。久蔵からもらった猪や穴熊の肉も煙にあてて日持ちするようぶら下げてある。芋を背負い籠に詰め立ち上がろうとしたが、中々の重さにふらつく。丹田に気を集めて立ち上がった。小屋へ戻り土間の脇に掘ってある穴の前に籠を下ろし、穴のふたを開けた。人が通れるほどの広さで、穴には階(きざはし)が付けてある。秀吾は声をかけた。「晋助、貯蔵穴に降りる。手伝ってくれ」薬部屋から晋助が出てきて言った。「秀吾、いい芋が出来たではないか」「わしが手塩にかけて育てた芋じゃ。美味いぞ」紐を付けた笊に芋を乗せて穴の下におろす。下は少しばかり広くなっていて、歩く所以外が四つに仕切られ、すくも(もみがら)が敷き詰められている。下ろした芋をその すくもの下に埋めていく。四つに仕切った他の場所にも大根やゴボウ、蕪、他にも白菜や里芋、人参も埋めてある。この地下に掘った穴は一年中涼しく、一定の温度に保たれている。この竪穴の事もここに来て初めて知ったことだった。とにかく日持ちがいい。季節によって野菜は変わるが、涼しさと すくもによって野菜は保たれるようだ。下ろされた芋は全て すくもに埋められた。階を登り土間に出ると、晋助が神妙な顔で「今夜、飯時に旅の計画を全て話す。お前の意見も聞きたいからな」と告げられた。

「まず、ここから野麦峠を越えて木曽路の藪原宿に出る。そこから中山道に出て、西へ向かって鳥居峠を越え、大井宿、大湫宿を経て美濃国を縦断。そのまま中山道の垂井宿を南下し、関ヶ原から丹波路へ、園部を経て亀山に着く。秀吾の足ならば九日か十日で着くであろう。それから少し重いが薬草も背負っていけ、怪しまれないためだ。既にお前には薬草の知識はある、誰に何を聞かれても薬の事なら答えられるだろう。わしらは松本藩領、沢渡村から来た薬売りだ。先日も話した通り、非常時には橘屋の名前も出していいと女将には了解を取っている。出立は明日だ」旅の装束や荷は何度も点検してすでにまとめてある。「晋助、路銀は」秀吾の前に晋助は布の包みを置いた。「中を確認しておけ」秀吾は静かにつつみを開き、金子を確認した。「足りるか」「十分だ」「晋助も十分路銀はあるのか?」「いや、わずかにだが、足りぬ。明日、橘屋に寄ってから足利へ行く」「晋助はどの街道を進むつもりだ?」「わしはお主がここへ来た道を行こうと思っている。ここから松本城下へ、中山道を塩尻、下諏訪、和田峠、高崎、倉賀野、日光例幣街道を足利方面へ、八木宿、梁宿と進めば四、五日で行ける。それより秀吾、わしが足利へ赴くより、京の向こうの亀山には、わしの倍の時間がかかる、もしも路銀が足りぬなら、わしの父か、兄に申せ、必ず出してくれよう」「心配するな、それは最後の奥の手として取っておく。それより、その、なんだ・・・」「ははぁ、またあれか、はっきりと申せ」「妹への手紙は持ってくれたか?」 「お前は心配性じゃのう。もう十日も前から行李の一番奥に入れてある。それから毎日その行李を覗いては、手紙があるか確認しておる」 「なんじゃ、晋助。お前の方が心配性ではないか、毎日確認するなど、その証じゃ!」と言って「かっかっかっと笑った。