屋根をたたく音が尋常では無かった。ばりばりと硬い音が響く。秀吾はあたふたして、「おい晋助、何事じゃ」 「雹であろう」 「屋根が破れるのでは無いか」 「そんな訳はないだろう」 「いや、しかし」秀吾の言うとおり、破れるほど、屋根をたたく音が響き渡る。いつもは眠っている黒彦も、こちらを見て、息をハアハアとさせている。正直屋根よりも折角育った薬草の方が気になった。だが仕方ない、これも自然の摂理なのだからと思いを背けた。
翌朝、小屋の扉を開けると昨日まで新緑で鮮やかだった欅の葉は、蹴散らされて地面に散らかっていた。薬草畑に走ったが、案の定、見るも無残にバラバラになっていた。もう今からの移植は難しい。成長の勢いがある頃合いは過ぎた。「おい晋助、被害はどうだ」秀吾がそう問うが、つい「見ればわかるだろう」と声を荒げた。「すまぬ、お前が手塩にかけて育てた薬草が・・・」それだけ言って秀吾は声にならなかった。「つい声を荒げてしまった。お前のせいではないのにな、許してくれ」 「誰だって怒りたくもなる。お前の気持ちはようわかる」小屋に引き返し、千切れた葉っぱを掃き清め、屋根や壁も不具合、綻びが無いかを見て回った。その夜、晋助は秀吾に「やはり薬草の移植は難しい。二人がここを離れるには御銭が足りぬ。お主か、わし、どちらか一人ならば行けよう」 「待て晋助、まだ刻限がついえたわけでは無かろう。それより、ギリギリまで足掻いてみようでは無いか。わしとお前のどちらかなど選べるはずも無かろう。それより山を駆けずり回っても採取しようでは無いか。今年が駄目なら二人とも来年じゃ」 「そうか、すまぬ。気の迷いであった。この山脈は広い。わしらがまだ知らぬ採取場もあろう。種類によって違うが、大体の場所は分かる。夏の終わりまでに御銭の目途は付けたい。またお前には苦労を掛けるが頼む」 「何を言っておる、三食昼寝付きの贅沢三昧、身を粉にして働かねば罰が当たるというもんじゃ」秀吾はそう言って笑ったが、路銀を夏の終わりまでに稼ぐことは容易ではなく、ましてや二人を目的地へと運ぶことは到底及ばぬことであろう。晋助は思案をしていた。二人は懸命に働いた。早朝から新しい採取場を探し、山を駆けずり回って薬草を採取し、夜は干した薬草を薬研で引いた。
その日は源蔵が熊に逆襲され亡くなった谷から尾根へ這いあがった。秀吾も息を切らしている。思った通りその場所には薬草の群落があった。険しい斜面は人が簡単に登れるようなところではない。だが、源蔵は手鉤というものを使って斜面を登っていた。持ち手の先がくの字に曲がった鉄の一本爪で出来ていて、それを二本交互に地面に突き立てて登っていた。二人もその手鉤を使って登った。秀吾は竹筒から水を煽った「ああ、美味い。しかし晋助、この手鉤があれば急な斜面も難なく登れるのう」 「ああ、楽ではないがこれさえ有れば何とかなる」 「ははは、見ろこの苔桃の群落を、これは良い値が付くのではないか」 「そうだな、ここへ来られるものなどそうそう居らんであろうしな、良い場所を見つけた」二人で背負い籠が一杯になるほどの得物を集めた。そのとき秀吾が緊張した声をかけてきた。「晋助あれを見ろ」秀吾の指さす方を見ると、巨大な熊が顔をこちらに向けている。目を凝らして見てみると、左の耳が無い。指さす向こうのその熊は、しばらくこちらを見ていたが、のっそりと動き出し、林の中に入っていった。「あれはもしかしたら源蔵を襲った熊かもしれぬ」 「何故そんなことが分かる、大きな熊ではあったがそんなことは分からんだろう」 「あの熊、左耳が無かったであろう、この前、畑の拡張の手伝いに来てくれた久蔵に聞いたのだが、源蔵親方は熊を打ったが、急所を外して耳に当たったそうだ。それで逆上した熊に襲われたそうだ」 「そうか、人に恨みを持っておるかもしれんな」 「うむ、今日は熊と距離があったからよかったが」秀吾と二人、熊が去って行った林を眺めていたが「さあ、そろそろ帰ろう腹も空いたしな」秀吾が歩き始めた。
出来上がった薬を二人はせっせと橘屋に卸した。橘屋の店先に着いた時、秀吾は「晋助わしが表から番頭さんに声をかけておく、お前は裏絵まわって黒彦の荷をほどいておいてくれ」そう告げて、秀吾はのれんを押して中へ入った。番頭の惣吉はいつもの場所に、いつものような格好で筆を走らせていた。「沢渡村の源蔵の使いで参りました」そう告げると顔を上げた惣吉は秀吾を見てにっこり笑って「秀吾さん、お待ちしていましたよ」と言って框の処へやってきた。秀吾は「番頭さん済まぬが、こちらへ女将さんを呼んでくれぬか、晋助はすでに裏へ回っておるので番頭さんは晋助のところへ」そう言うと不思議そうな顔をしたが、ようございますと言って奥へ引っ込んだ。しばらくすると女将のお詩乃が奥から出てきて、秀吾の前で膝を折った。秀吾も深く頭を下げて、「毎度ありがとうございます。今、晋助は裏へ回っております。それで、折り入ってお話があります。手短に話しますので、少々表でお話しできませんか」 「何ですの、そんな改まって」 と言いながらも、お詩乃は草履を突っかけて表の暖簾をくぐった。「早速だが、実はわしも、晋助も、脛に傷持つ者。言うに言われぬ事情が過ぎ去りし日々の中に合った。その事情は今は言えぬが、互いに家人がその後、どうしておるのかが気になっておる。・・・」といきさつを話し、「そこで、互いに領地に赴いて家族を見舞おうという事になったが、先日の嵐で畑の薬草がほぼ全滅した」 「ええっ、でもお薬はいつも以上にお持ちいただいてるやありませんか」 「それだ、わしも晋助も今は山を駆けずり回っているし、今が一番取れ高がいいからたくさん卸せるが、それでも路銀が足りんと晋助は考えておる。女将、この通りだ。晋助にいくばくかの金子を貸してやって欲しい」秀吾は頭を下げた。「いつまでに金子が必要なんですか」 「晩秋、長月に。わしは居候じゃ。わしに貸し付けてくれてもいいが、信用が無かろう。だが、これはわしら互いの事である。わしも身を粉にして金は返すので、この通り頼めんか」「お話しは分かりました。私も、今はお返事できません。けど、心配せんでも大丈夫。よう、話して下さいました」 「それから、この事は晋助には内密に」お詩乃は胸をポンと叩いて「任せてください」そう言ってお詩乃は踵を返した。秀吾も急いで裏へ回った。「秀吾、遅いでは無いか。早う荷をほどけ」急いで荷をほどいて薬の行李を広げた。そこへ、お詩乃がやってきて「晋助さん、遠いとこ、いつもお世話になっておおきに」と手をついた。「こちらこそたくさんお買い上げいただいてありがとうございます。」 「まあまあ、ええ苔桃ですね」 「いい採取場を秀吾と見つけましてね、とても大きな群落があったんですよ。そこは深山のさらに奥で、人もめったに入ってこないところに見つけたんです」 「そんな深山の奥へ。畑もあるんだし、定期的にお薬は納めてもらってるから、危険なことは晋さん、止めた方がええと思うけど・・・それこそ怪我でもしたら、お薬も納めてもらえない、なんてことになったら目も当てらませんでしょ。無理せんと今までどおり、長いお付き合いでいいでしょ」 「ありがとうございます。ですが、事情がございまして橘屋さんさえよければこのまま納めさせていただけませんでしょうか」 「それはいいけど、その事情ってなんですの。その事情でどれだけお金が必要なの」秀吾は冷や汗が出た、女将のお詩乃に話したことは早まった事だったかと・・「お金が必要なのは事実ですが、その事情は言えません」 「晋さん、なんぼ必要なんです。」 「それを聞いてどうなさるおつもりですか」 「差し支えなければ、この橘屋でその金子をお出ししようと思います」 「何故、橘屋さんが、私どもに金子を差し出していただけるのですか」お詩乃は胸を張って 「晋さんと秀吾さんをうちとこの、お抱えにしようと思います」 「女将さん、先日も申しましたが、私どもは橘屋さんを決して裏切りません。今でもお抱えのようなものでございます。何があっても」 「わかってます。そうだからこそ、晋さんたちが困っているなら、この橘屋がその事情にお金を出しましょうと云うてるんです」 「女将さん・・」晋助は絶句して声も出せなかった。両手をつき、額を畳に押し付けた。少し後ろに控えていた秀吾もひれ伏した。晋助は顔を上げ「ありがとうございます。橘屋さんが私どもに強い絆を抱いていただいた事、深く感謝申し上げます。夏の終わり、長月にその事情の旅に出ます。十五、六日になるかと思います。その折にどれだけ金子が必要なのかも含め、お知らせいたします。橘屋さんの後ろ盾があれば、私たちも大船に乗ったような心持。どうか今後ともお引き立てのほどよろしくお願いします。」お詩乃はにっこりと笑って、晋さん、またそんな硬い言い回しして、他人行儀でいややわといって、晋助と秀吾を見つめた。
軽くなった背負子を担いで、晋助と秀吾、黒彦は歩き出した。しばらく歩くと晋助は「どうして、お詩乃さんは、わしらに金を出そうなどと言い出したのだろう」 「さあ、このところ頻繁に薬を卸しておるから、金が必要なのだと思われたのではないか」「確かに頻繁ではあるが、夏前のこの時期は一番薬草も獲れるから、毎度のことでもあるのだがのう。ううむ」 「いいでは無いか、これで我らも家族を見舞えるのだ」 「秀吾、お前もしかして女将さんに、何か話したのか」「いや、いやいや。わしは知らん、何を疑っておる」 「そういえばお前、今日は何故、わしを裏に回らせ、お主は表に回っておった。その上、少々遅かったでは無いか、番頭さんはすぐ来たが、お前はなかなか戻らなんだ」 「いや、そうではない、厠じゃ、厠。それも・・・大きい方じゃ。晋助、恥ずかしいことを言わせるな、お前というやつは・・」晋助は半信半疑であったが、まあいいかという気分になった。いずれにせよ、良い方に転んだことに安堵した。
