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元禄 山野流浪紀 六 潮目

  1. 私小説
2026/04/29

秀吾は帰り際まで、女将を笑わせていた。見送りに出たお詩乃と番頭に、二人で頭を下げ「ではまた」と言い、向きを変えるとき、秀吾は顎先を掴んで歌舞伎役者のように見えを切って見せた。すると、ようやく落ち着きを取り戻していたお詩乃がまた「ぷっ」と噴き出していた。「もう、秀吾さんやめて、今日は絶対がしわが増えたわ」と言って涙をぬぐった。二人と黒彦は橘屋を後にして家路を急いだ。

「なあ、晋助。」 「何じゃ。」 「ううむ、その、何だ」「何じゃ、煮え切らぬ。早う言ってみろ」「実はな、酒が飲みたいのじゃが、どうであろう、一献傾けぬか」 「酒か。わしも久しく飲んでおらん。もしかしておぬし、酒の失敗で事を起こして、国元を離れたというのではなかろうな」 「馬鹿なことを申すな、酒は好きだが、飲まれてはおらん」 「それなら良いが、今日は薬草もよう売れたし、飲むか。」そうして升酒屋によって酒を買い込み意気揚々と家路についた。酒以外にも、米、味噌、醤油などを買い込み,肩の荷は辛いほどだったが、これで当分は大丈夫だろう。早速、夕餉の支度に取り掛かり、米を炊きたんぽり(岩魚)を焼き、燻した鹿肉を炙った。秀吾は待ちかねたと見えて、茶碗に酒を注いでやると、一気に煽って「ああっ美味い。生まれてきてよかった」と、しみじみと漏らした。「秀吾は大げさだな」 「いや、晋助。とにかく飲んでみろ」晋助も茶碗をあおった。「うまいなぁ。気が遠くなるほど美味い。こんなことは初めてだ」「晋助はどれほど酒を飲まなんだ」 「ここへきて一年と少しになるが、その間は一度も飲まなんだ」 「そんなにか」二人はふいに言葉を失い、たんぽりや炙った鹿肉で、今度はちびちびと酒を飲んだ。しばらくの沈黙の後。「晋助、ここでの一年余りは、何も考えず、ただ目の前のことに没頭して、時を過ごしたのか?」 「そうだ」・・・

「わしにはばば様と妹がおると話したであろう。わしはこんななりだが、妹は器量がいい娘だ。その妹は祝言が決まっておったが、あの御自分御届けだ」 「いや待て、急に何の話だ」 「晋助、まあ、聞いてくれ。藩の御小姓組に廣瀬 下野守 忠政なる男がおる。その次男兵部に妹は嫁ぐことになっておったが、突然、破談を申し入れてきた。わしは納得がいかぬことから、何故このような手前勝手なことを申されるのかと、直談判に赴いた。しかし、廣瀬忠政は決まったことだと、一点張り。兵部に至っては、お家の事は父上が決めた事と言うばかり。わしはいざって詰め寄った。納得がいく答えが聞けぬまで帰らぬと。そうしたところがどうじゃ。「このうつけが」とわしを足蹴にしよった。わしは掴みかかって、兵部を張り倒した。後は廣瀬の家の者に取り押さえられ、郡奉行に突き出されたが、先に足蹴にしたのは廣瀬であるし、お家の面子もあるので罪には問わぬが、処払いとするという沙汰が下った。

妹はしばらく泣いておったが、涙をぬぐい、唇を引き結んで、兄上様、ばば様の事は、ご心配召されるな、痩せても枯れても、わたくしは直江の娘でございます。必ずばば様を最後の最後まで見届けてまいりますると、わしの目を見て言うてくれた。だが、辛い思いをしておるだろうと考えると胸が苦しくなる。今思えば廣瀬も御自分御届けのあおりを食って、お家が立ち行かなんだと思える。わしに考えがなかったことで、皆に迷惑をかけた事が心苦しいのじゃ。しかし、この様な話を聞いてもらって相すまぬ」 「そうだったか。おぬしも苦しみを抱えておったか。秀吾、お前が話してくれたからと言うわけではないが、わしもな‥」晋助はこの地に逃げてきた経緯を話して聞かせた。話が終わった後、秀吾は「ふうっ」と大きなため息をついた。「晋助、お前は何も悪くはないではないか。それは、不慮の災難で有ろう。見ておったものも大勢居たのであろう?」 「確かにそうだが、それまでわしは、体術の鍛錬を懸命に励んでいた。相手が怖かったわけでも無く、暴漢にひるんだわけでも無い。だが、刃物がわき腹に突き刺さってのを見て、それが人の生き死ににかかわると初めて分かった。そして罪の重さも。御店の丁稚を助けた事を後悔はしていないが、わしも、お前同様父や母、兄、御店に迷惑をかけた事が辛い。もう一つ言えば、わしには許嫁がおった。名をお雪と言う。見目麗しい、小間物問屋の娘御だ。だが、もう破談となって、何処かの大店の跡取りの処にでも収まっておろう。あれ程の女子を放っておくはずも無い。まぁ、わしのほうはその様なことよ」 「お互い脛に傷持つ者と言う訳か」 「そういう事じゃ」 「じゃが晋助、お前に話してわしは楽になった。この通りじゃ」と言って頭を下げた。「何をその様に大袈裟なことを。言ったでは無いか、俺、お前の仲だと、わしもさっぱりした。痛み入る。」 「ならば飲もう。わしらは朋輩じゃ」

翌朝はいつもの時刻には起きられず、頭痛を抱えたまま、引いてある山水の溜石までふらふらと歩き、乾いたのどを潤した。「いや、参った、参った。油断しておった。頭が痛い」晋助は水をたっぷり飲んだ後、小屋に戻り、薬部屋に入り、うこんを探し出し、薬研で引いた。それを匙に一杯口に入れ、今度は瓶の水を飲んだ。壁に背をもたせ掛け、じっとしていると、隣の部屋から「うあっあ」と言う獣の様な声が聞こえた。ははぁ、秀吾も、昨夜は深酒をしておったから、さぞや頭が痛かろう。晋助はゆっくりと立ち上がり、何食わぬ顔で「おう秀吾、遅いではないか、いかがいたした」 「頭が痛む、昨夜は飲みすぎた」 「何じゃあれしきの酒で」 「お前何ともないのか」 「いつもと変わらん、体術の稽古もしたぞ」 「なんと・・・」からかい半分で言ったが、案外信じているようだ。晋助は「さぁ、冷たい水を飲んで顔を洗ってこい、それまでに二日酔いに、良く効く薬を作っておいてやる」そう言って秀吾を促していかせた。部屋に戻って、もう一度薬を引いた。薬を引きながら、昨夜のことを思い出して、秀吾も妹も不憫よのう。どうしたものかと思案しておるところへ、秀吾が戻ってきた。「晋助、今から畑へ行くのか?」「いや、さっきは、いつもと変わらんなどと言ったが、わしも二日酔いじゃ。お前を揶揄ってやろうと思ったが、わしもそれどころでは無い」柔らかい春の日差しが降り注ぐこの山裾の庵で、今日は静かに時を過ごすことにした。秀吾にも二日酔いのくすれを与えて、水を飲みながら庭の前にある長椅子で時折ぼそぼそと話していたが、晋助は突然「秀吾、お前の思いはどうなのだ。」 「どうとは?」 「本当は妹御に合いたいのでは無いのか」 「無論、会いたい。だが、三年の処払いじゃ、会うことは叶わん」 「ここで三年待つつもりか」 「わしに何ができる」 「わしなら出来る」 「何を申しておる」 「お前の代わりにわしが足利へ行こう。お前は文を書き、いくばくかの金銭をわしに持たせれば、妹御に渡そう。どうじゃ」 「どうと言われても、お前はいいのか?」 「わしが言い出した事じゃ、一向にかまわんが、今すぐにと言う訳にはいかん。これからは本格的に薬草を集めねばならんし、次の冬に備えて薪や食料の調達、味噌や醤油も作り置かねばならん。それに、足利までの御足が必要だ。その時期は秋になろうな」 「それは、わしにとっては渡りに船だ。だが、晋助、わしの話も聞いてくれ。お前が足利に行くならば、わしが京へ赴こう。そうして、親御殿に会ってその後の経緯や今の暮らしを伝えよう。お前さえよければ、その・・お雪殿にも会って来よう。いかがじゃ」晋助は笑みを浮かべて「だが、そうなると御足は二倍じゃ。二日酔いでふらふらしてはおられんぞ。秋まで、汗水たらして働かねば御足は作れんぞ秀吾。それでも良いか?」 「望むところよ」二人は決心した。

畑を裏山だけでなく、木を伐り、周辺地を開墾し、畑にすることにした。初夏になり山に猟に出なくなった久蔵たちにも手伝ってもらって、畑地を広げた。薬草の生育場所も考え、ところどころに木も残し、木陰のある環境も作った。人の手で作った岩の台地も作り、その地に合う薬草を移植し、今まで試しても失敗していた薬草も何とか息づいた。山の水を更に畑近くまで引き込み、必要な薬草には水を与え、自分達が食べる野菜なども作れるようにした。

「久蔵さん、そろそろ、一服しよう」 「ああ、ありがてぇ」今朝、炊いておいた飯を、握り飯にして、漬物と一緒に、干した たんぽりも並べて出した。久蔵たちと木陰で昼餉にする。秀吾は水瓶を抱えて運んできた。「冷たい水もどうぞ」一口飲んだ久蔵の手下が 「こりゃあ冷たくて、うんめぇ」と日に焼けた顔をてらてらさせながら言う。秀吾は久蔵の手下たちに何やら猟の話を聞いているようだ。ときおり「ええっ」、とか「おおっ」と声を出している。久蔵は「晋さん、あの男はどうだい?」と秀吾の方を顎でしゃくって聞いてきた。「まぁ、大飯ぐらいだが、良く働いてくれる。以前は侍だってことも鼻にはかけないし、薬草の事も山仕事も畑仕事も覚えようと、一生懸命にやっている」「そうかい、そりゃあ良かった。源蔵さんが亡くなった時は俺たちもだったが、先が見えなくなっちまって、どうやって活計(たつき)を立てて行きゃあいいのか分からなかった。けど、晋さんが、時々山を降りて薬を売りに行ってるのを知ってたから、俺たちも、源蔵さんには追い付けねえが、またぎを続けてこうっていってんだ」 「同じですよ。どうやっていいのか分からないこともありますが、源蔵さんの残してくれたこともまた大きい。町人町の大店の薬種屋を紹介してもらったことが、私には大きかった。」 「俺たちも、それぞれ源蔵さんの言葉を集めて、あんときの巻き狩りの時、源蔵さんがああ言った、こう言ってたって。そいで、何でそう言ったんだろうって、考えてんのさ」 「私も同じです。けど、源蔵さんは終ぞ、御自分の事は語ってくれなかった。倒れていた私を庵に連れ帰り、生かしてくれた。生きるためにできることを教えてくれた。何も恩返しはできませんでしたが・・」 「晋さん、案外そうでもないんじゃねえか、あの人あんたが来てから生き生きしてたし、少し笑うようになった。息子みてえに思ってたんじゃねえかい」 「そう思っていただけていたなら、私にとっても幸いです」 「きっと、そうだぁ。おおい、みんな、そろそろ仕事に取り掛かるぞ」「へえ」