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元禄 山野流浪紀 その五 日常

  1. 私小説
2026/04/24

ここでの暮らしを一通り伝え、後はその目で確かめてくれと、秀吾を畑へ連れ出した。山の斜面に畝が三つ、その一つは、日の光が直接あたらぬよう、庇(ひさし)が付けてある。そこに移植した苔桃は高山の唐松の下に生える薬草の一種で、直射日光に長く晒すと生育が良くないので、庇の下で育てている。他にも、せんぶりや黄柏(おうばく)も風土に合ったやり方を工夫して畑に移植している。そんなことを秀吾に説明しながら、二人して雑草を引いている。日も高くなり暑くなってきたので、森に分け入り薪を拾う。晋助は振り返り、秀吾に「礫(つぶて)は打てるかと聞いてみた」 「何のために礫が打てるかなどと聞く」 「この森の下に草地がある。そこに兎たちがが集まってくる。そいつを狙うのじゃ!」 「食うのか?」 「そのために礫を当てねばならん」 「お前は礫で兎を仕留められるのか」 「百発百中とはいかんが、十度投げれば、七度は当たる、が仕留められるのは五度だろう。急所に当たらねば逃げられる。だから、わしは腰にぶら下げておる袋に石を集めておるのじゃ」 「石など集めずとも、そこらにいくらでもあろう」「秀吾は分かっとらんのう、礫は丸いものに限る。形が歪なものはどこへ飛んでいくか分からん」 「そんなもんかのう」 「よし、では兎取りに行こう。お前はそこらの石で仕留めてみろ、当たらねばお前の肉は無いぞ」 「分かっておる」秀吾はぶぜんとしたが、いいところを見せようとでも思っているのか、やる気満々で先を歩いていく。

その、すり鉢状の草地で秀吾とは左右に分かれ、兎を探すことにする。晋助はしばらく歩くと辺りを眺め「よし、ここにするか」と定め、腰袋から石を数個、掴みだし右手に一粒握りしめ、片膝をついて石のようにじっとしていた。どれくらい時がたったであろう、草地の奥の枯れすすきから、ごそごそと兎が這い出てきた。が、まだ礫を撃つには早すぎる。草をはむことに夢中にならなければ、藪に逃げ込まれる。風が芒を揺らす音に兎は立ち止まり、辺りを見渡している。しかしそれも束の間、好物の草なのだろう、夢中になって食べ始めた。晋助は礫を投げようとしたが、その芒の藪からもう一羽の兎が現れた。その兎は草を食んでいる兎の方へ歩みを進め、やがて二羽は並んで草を食み始めた。晋助は心の内で、あたるかは分からぬが,やってみるかと決め、そっと右手にもう一粒、石を握った。心気を済ませ、礫を放った。「どすっ」と言う鈍い音がして二羽の兎が倒れた。一羽は頭に、もう一羽は脾腹に当たった。運が良かっただけだった。狙ってできるものではないが、上手くいった。二羽の兎を腰にぶら下げて合流地までゆっくりと歩いた。

一方の秀吾は少し高い丘から、草地を眺めていた。脇に小さな川が流れている。川とは反対方向に目を付け、歩き出した。茅の手前の草地にひょっこりと兎が現れた。秀吾はぴたりと立ち止まり、目も伏せた。上目遣いに兎を見るが、こちらには気づいていないようだ。晋助にそこらの石で仕留めてみろと言われたが、わしも選べるならば選ぶ。そうしてゆっくりとしゃがんだ。頭もゆっくり動かし、下を向いた。思っていた様な石があった。それは晋助が言うような丸い石ではなく、平べったく薄い石だ。その石を親指と中指で挟み、人差し指は石の側面に添える。子供の頃、川でよくやった、水切りの要領だ。もう一度ゆっくりと中腰になり、兎めがけて石を放った。当たった。当たったが、兎は藪へ逃げ込んだ。「ちっ、当たり所が悪かったな、くそっ」もしやと思い兎が逃げた藪を探してみるが影も形も無い。秀吾がブツブツ文句を言っているところへ、晋助がやってきた。「お前、兎は取れたのか」と満面の笑みで聞いてくる。「石は確実に当たったのだが、藪に逃げ込んだので、今探しておったとこだ」見ると晋助は腰には二羽の兎をぶら下げていて、にやにやと笑っている。「当たっただけでは、腹は満たされんぞ」と憎らしいことを言う。「もう少し待ってくれ、必ず仕留めてくる」といったが、「もう良いでは無いか兎は二羽、わしが仕留めたのだから」と更に癪に障ることを言う。「当たらねば、わしの肉は無いとお前が言ったではないか」 「いや、秀吾。わしは今日は気分がいい。何しろ一度、礫を投げただけで二羽も兎が捕れたのだから、わしのとった兎を食え。さぁ、足元が暗くならぬうちに帰ろう。そしてわしの捕った兎で。うむ、わしの捕った兎で、兎汁じゃ。ハハハっ」と二度も言って高笑いをした。秀吾は頭の先まで火を噴くほどに、腹が立ったが、何とか収めた。「くそっ、今に見ておれ、この悔しさ晴らさずに置くべきか」と心に誓う秀吾であった。

兎の足首に切り込みを入れ、皮を剥いて、内臓を取り出す。内臓はよく洗って、火を通し、黒彦の飯になる。肉は塩を振って鉄串を打ち、囲炉裏の火から、一番遠いところに鉄串を刺し、ゆっくりと時間をかけて肉を炙る。その間に鍋に湯を沸かし、牛蒡や芋、取れたての独活や他の山菜もいれる。兎の肉がじりじりと焼けてきたところで向きを変え、裏側を焼く。裏側が焼けたら適当な大きさにぶつ切りにして鍋に入れ、味噌を溶かし込み、後は煮立てば出来上がりだ。遠火でじっくり焼いた肉もうまいが、焼いた肉を味噌鍋にするのも美味い。

「秀吾、どうした。飯を食わんのか」 「いただく」と言ったが、憮然としている。「いつまでむくれておる。兎はまた捕まえればいいではないか」「そうではない・・そうではないが、ううむ」 「まあ、食え。美味いぞ」秀吾は椀を受け取り、肉を口に入れ噛んでみた。旨味が口いっぱいに広がり、更に味噌のうまみと相まって、身体の隅々まで滋養が広がるようであった。「晋助、これは美味い。格別じゃ」腹が満ちると、先ほどまでの事などどうでもよくなった。

白湯をすすりながら、秀吾は「おい、晋助。あの山に登ったことがあるか?」 「あの山とは」 「代馬岳と言ったかのう、あの三つの頂を持つ山じゃ」 「うむ、正直に言えばまだ無い。おぬしは登りたいのか?」 「ああ、あの山に登ってみたい」 「実はわしもあの山に登ってみたい。だがしかし、あの山は一筋縄ではいかん。登れる時期も限られておる」 「登らんのか」 「登るが、今ではない。夏の一番日の長い夏至から数えて、二十日後くらいかのう、そのおりに梅雨が明けておれば良いかのう」 「梅雨が明けておればいいのか?」 「ああ、だが支度は必要だ、あの頂に行くことはやぶさかで無い」 「支度とは何じゃ」 「まあ、おいおいに勧めて行こう先立つものも必要だしなぁ」晋助も秀吾も、今はまだ白い雪をまとった山々を思い描いていた。少しの不安と胸の高鳴りを覚えて。

それから十日ほどの後、晋助と秀吾は連れ立って、橘屋へ向かった。一人で背負う荷の量はたかが知れているが、二人ならば倍だ。今回は試しに黒彦にも背負わせてみる。山を降り、街道を進む。いつもそうだが、町人町とはいえ、人が多いところは気持ちが塞ぐ。あのことに端を発しているのだろうが、他人に顔を晒すことが難儀なことである。編み笠を深くかぶり、速足で進む。「晋助、もう少しゆっくり歩かんか、まだ余裕もあろう。黒彦もなれない荷を背負っておる」 「やっ、これは済まぬ、緩めよう」 「おぬし、何か不安でもあるのか?」 「何を言う、殊更(ことさら)そのようなことは無い」 「ならば顔を上げ、胸を張って歩け、お前らしくないではないか」そう言われて、はっとした。もう済んだことである。今更それを悔やんでみても始まらぬ。そうしてきたではないか。「秀吾、すまぬ。昔の事を思い出してなあ」 「ふん、らしくもない。なんでもいいから元気を出せ」晋助は顔を上げた。言葉にはしなかったが、秀吾はいい奴だ。ただいい奴だった。

橘屋に着いて、いつものように声をかけ裏口へ回る。番頭の惣吉に秀吾を紹介し、いつもの倍の薬草を持ち込んだ旨を伝えた。黒彦の背にくくりつけた荷も降ろし、薬の見分が始まった。互いの帳面にその薬草それぞれの量、買取金額などを記入し仕事の話は済んだ。縁側ではなく奥へ通され、茶をすすめられた。秀吾と並んで茶をすすり他愛もない話をしていると、女将のお詩乃が入ってきた。晋助と秀吾は居住まいを正し、上座に座ったお詩乃に、手をついて挨拶をした。「橘屋の女将さん、いつもご贔屓にしていただいて、誠にありがとうございます。本日はいつもより多くの品を番頭の惣吉さんにご相談をして、お引き取りいただきました事、重ねて御礼申し上げます」 「晋さん、また、そんな硬い事・・私らも、晋さんの持ち込んでくれるお薬が、評判が良いからお願いしてますし、他の薬屋さんに引き抜かれでもしたらうちの商売ガタ落ちになりかねません。だから、こっちの方からお願いせんなんゆうて番頭さんとも言うとったんです」「女将さん、本当にありがとうございます。ですが、他の薬屋に鞍替えするなどという事はありません。それはお約束します」 「それなら私らも安心だわ」 少しふっくらとした色白のお詩乃は笑みを漏らし、視線を秀吾の方へ向けた。「晋さん、こちらは・・」 「はい、この男は名を直江秀吾と申します。訳あって、今は私と死んだ源蔵の庵に暮らしております。」 「ええっ。でも名字をお持ちという事はお侍さんじゃないの」「今はただの秀吾。ただの秀吾でございます。」 伏せていた顔を上げ、秀吾が女将を見た。「うむっ、それがし確かに武士ではあった。が・・・やめた。晋助が言う様に今はただの秀吾じゃ、女将殿。それにじゃ女将殿、武士じゃ、侍じゃと言うても、このしゃくれ顔じゃ、刀よりもこの顎の方がよう切れようぞ。同輩にはしゃくれの秀吾と呼ばれておってのう、わしは笑い奉行などと呼ばれておった」そのとき、秀吾の横にいた、晋助が突然「ぶふぁっ」と吹き出し、大声で笑い始めた。つられて女将のお詩乃も番頭の惣吉も笑い始めた。秀吾は「どうじゃ女将、顔など伏せておらず、もう一篇わしの顔を見てみんか」と言って更に下あごを前に突き出し左右にしゃくって見せた。お詩乃は、伏せた顔を少し上げ、ちらりと上目遣いに秀吾を見た、その刹那。「だにゃっはぁ」と言う聞いたこともない笑い声をあげ、涙を流しながら両手で顔を覆い、息もできないほどに肩を上下させ、笑い転げた。