黒彦を土間から外に出し、体術の鍛錬を始める。庭の大木を人に見立て、掌底を打ち込む。主に急所を狙うため、こめかみ、目、鼻、顎からさらに下へ、喉、鳩尾、金的となる。その他は間接への打撃などが打の鍛錬だ。だが楊心流の極みは相手の力を利用して行う、流れる様な体の動きと、そのしなりだ。振り下ろされる刀の内側に体を寄せ、急所への肘撃や、打ち込んでくる剣を左に交わし、相手の脇腹(肝臓撃ち)へ当身や、右に交わし膝を外から蹴倒すなど、実践を想定しての稽古が主だが、ここでは、動かぬ木を相手にしているので、心眼を働かせ、例えば下から擦り上げてくるような剣をどうかわすか、その体の動きも幾重にも考える。そして、何より大切にしている事は、身体の柔らかさを作ることだ。二つ以上の関節をまげて、筋を練る。関節周りの筋の事もあれば、曲げた関節から遠い筋を更に捻って練ることもある。後は足の搬びである。
黒彦は外へ出すと喜び。辺りの匂いを嗅ぎ回ったり、縄張りを回っているようだが、帰ってくると、退屈しのぎに私の体術を眺めているが、それにも飽きると前足に顎を乗せて眠ってしまう。もうそうなると摺り足の音も、掌底を打ち込む音にも関心を持たない。今までは源蔵に連れられ山に分け入り、獣を追っていたが、薬草積みには付いてくるが、一向に獣を相手にできないことに不満を募らせているようだ。
棒術の稽古も終わり汗を拭いていると、「やあやあ、昨日は世話になった」と直江が戸口から出てきた。明るい日の光でその顔を見ると、あるのか無いのか分からぬような細い目に、やけに広がった黒い鼻の穴と小さな口があり、そして、その大胆に杓れた顎を持つ顔は、上から順に、小さい大きい、また小さい大きいという部分が繰り返されるという、忙しい顔だ。
「直江殿、その右奥に山の水が引いてある。傍に粗塩もあるので、顔を洗い、口を濯いでまいられよ」と告げた。「いや済まぬ」と言って直江秀吾はそちらへ向かった。昨夜は互いの話に耳を傾けた。直江秀吾は晋助に、毎日のたつきはどうしているかに始まり、薬草の事、それを薬にすること、売りに行く事や、ここでの暮らしに至るまで、遠慮会釈なく聞いてきた。晋助も「話せぬことは何があっても話せぬが、それでよければ」と前置きしたうえで、直江の問いに答えた。晋助の問いにも「わしとて同じじゃ、話せることは話せるが、話せんこともある」としたうえで話してくれた。
「いや、さっぱりした」と言って直江秀吾が戻ってきた。「はて、おぬしこんな早い時刻から、何をしておったな」 「日々の心得の体術をやっておった。毎日の癖のようなものだ」 「ほう、体術とな。どこの流派じゃ」 「楊心流だ」 「その名は聞いたことがある」直江秀吾は興味を持ったと見えて「見せてはくれぬか」と言ってきたが、晋助は顔の前で手をひらひらと振って「見せ物ではない」と断ったが、更に「よいではないか、減るもんでも無し」と食い下がってきた。晋助は「時に、直江殿は武芸はお盛んか」と尋ねてみた。「まあ、嗜む程度じゃ」と言ったが、その顔には満更でもない無いという表情が浮かんでいた。晋助は「直江殿、手合わせ願えるならば」と誘ってみた。「良かろう」と乗ってきた。
前庭で一間ほどの距離を取って対峙した。直江の構えは手のひらを手刀のようにして、腰を低く構えた形だ。それに対して晋助は手のひらを前に出し、脚も前後に開き、左肩は前に出して、やはり腰を低く構えた。互いに草履を脱ぎ棄て、裸足で向き合っている。晋助は直江が意外にできると感じた。足の指で土を掴むようにして、間合いを詰めてくる。今のところ隙は無い。動きの中で隙を見つけるしかない。晋助の間合いに直江が入ってきたので、幻惑するように手をゆるゆると動かしてみる。直江の低く構えた右手の手刀が首筋めがけて切れ込んできたが、間一発でのけぞるように交わした。また、お互いに間合いを取り対峙する。左にゆっくり回り始める。がその時は突然訪れた。晋助の顎を狙った蹴りが、気合と共に跳んできた。交わすことが出来ぬほどの蹴りを左手でさばいて、右手の掌底をこめかみに放った。直江は頭を低くしてその掌底を交わしたが、体を捻じりながら反撃の同回し蹴りがきた。晋助はそのまま肩でぶつかって難を逃れた。そこで今度はするすると前に出て、接近戦を挑んだ。晋助の掌底は前へ出て打つ打撃、に対して直江の手とうは切り打つ形。右、左と急所を狙って打ってみたが、直江も払ったり、交わしたりしながら応戦している。それでも乱打戦を続けて、膝へ、次に鳩尾へと打撃は入ったが、直江は巻き返しの手刀の一撃を放ってきた。晋助はその一撃を待っていたように、腕を取って腰をぶつけて足を払い、宙に跳ね上げ、落ち様に跳びつき、腕と肩を十の型に嵌めた。「ううっ」と唸って直江は「参った参った」と連呼した。
「いや、上には上がおる者よのう、正直、ここまで強いとは思わなんだ」と直江は言ったが、晋助は「いや、互角であったろう。まだ体が回復しておらん直江殿に勝ったとは、わしは思っておらん。」と言って、直江に「さあ、朝餉にしよう」と促した。
黒彦は朝餉と聞くと、急に立ち上がり、晋助の後ろについて、そそくさと小屋の中へ入ってきた。「直江殿、すまぬが此処では犬の飯が先だ。この、黒彦は小屋の持ち主だった源蔵の犬だ。猟犬として仕込まれ、獣の肉を食わせることで、獣の匂いを覚え得物を追い込むように仕込んである。底意地悪く飯を遅くしておるのではない。ご容赦願いたい」「昨夜のことかの、いや、こちらこそ、あいすまぬ。腹を空かしていたものでの、気が立っておった。こちらが詫びねばならん。晋助殿、許してくれ」「詫びなど、とんでもない、それが決まりと言うだけだ」干した熊の肉を黒彦に与える。この肉は硬い。黒彦は柔らかくなるまで、ひとしきり咬んで飲み下す。また咬んで飲み下すの繰り返しだ。一度、その肉を噛んでみたが、顎がおかしくなるほどに硬い。それに、獣臭さが辟易するほど匂う。途中で胸が悪くなり吐き出した。だが、そういう黒彦を見ていると恐れ入る。
朝餉は茶の子の餅と質素な味噌汁だけだ。晋助は直江に「朝餉は質素なもので済まぬが」と言ったが、直江は「なに、腹に入れば何でもよい」と箸をすすめた。晋助は「直江殿は、これからどうするおつもりですか」と聞いてみた。「それだ。それがしも一応、城には登城しておったが、なにしろ小普請組での無役じゃ、それで傘張りや、籠作りの他、なんでもやって行かねば糊口が凌げなんだ。わしの家には妹と婆様がおってのう、三つの口を養うのは誠、大変であった。うむっ、それでじゃが、もう少しここへ置いてもらえんか。もちろん仕事とあれば何でもする。飯炊き、掃除、薪拾い、なんでもする。この通りじゃ」と頭を下げた。晋助は直江をじっと見つめた。この男、顎はしゃくれておるが、心はしゃくれておらん様だ。飯さえ食わせておけば、力仕事も畑仕事も難なくやってくれるだろう。以前から畑を広げることを考えていた。しかし、独りで畑を広げるにはそれなりの労力と根気が必要であった。大飯食らいではあるが、それなりの働きもしてくれるだろうと算段をして「いいだろう、きちんと仕事をこなすのであれば、ここへおられよ。直江殿は大飯食らいだ、御自分の顎が干上がらんよう、励んでもらおう。それから、直江殿は武士で有られるが、ここでは武士であることに意味などない。ここで暮らすというなら、ここでは武士は捨てていただく。よろしいか」「無論、晋助殿の言う通りじゃ。それにわしも武士であるなどと鼻にかける気は毛頭ない。ここにおる間はただの直江秀吾で構わぬ。良しなに頼む」とまた頭を下げた。「では、もう一つ。ここでは俺、お前の間柄で過ごす。だから、秀吾と晋助で呼び交わすぞ、それでいいか。」秀吾は「望むところよ」と笑った。
