秀吾は宿の二階から、表通りを行きかう人を眺めていた。昨日は商人宿という京独特の宿に泊まることにしたが、さすがは商人宿だけあって商人たちは、宿に荷を預けたら、表に行こうと秀吾を誘った。煮売り家も兼ねた一杯飲み屋で、どこから来た、何を扱っている、どこを通ってきた、街道の様子など、いろいろな質問をぶつけられた。受け答えをしていたら、いきなり「あんた、以前は武士か」と聞かれ、あたふたしたが「今は商人のつもりだ」と返した。晋助にくぎを刺されたこともこともあるので、酒はほどほどにして引き上げた。さて、やはり桔梗屋に行って様子を見るか、と言って腰を上げた。今日もあの丁稚、喜助とか言ったな、付けてみるか。そう決めて、歩き出した。宿から桔梗屋は目と鼻の先だ。さすがは京の街だ。行きかう人は多種多様で、今は山奥で晋助と二人だけで暮らす秀吾には目が回るほどの人の往来だ。桔梗屋の斜向かいの水茶屋に腰を落ち着け、店先を見ている。今日も店は繁盛している様で、人の出入りは多い。しばらく眺めていたが、それにも飽きて、表に出てみた。まあ、焦らずともよいかと思いなおし、桔梗屋の前を通って昨日、丁稚の喜助が通った路地を歩いてみた。角を曲がり進むと、後ろからお武家様と声がかかった。振り返らずとも、それは喜助の声だった。歩みを緩めると、喜助は横に並び歩いている。秀吾は「わしは付けられたのかな」と言うと「つけるなど、とんでもないです。私は店の前を歩く直江様が見えて、追ってきました」 「だが、喜助殿は背後を悟らせなんだ」 「それは身に着いたものです」 「ほお、なぜそんなことが出来る」 「それは、直江様が私を信用していただかなければ、話せません」 「それは、喜助殿の言うとおりだ」 「いましばらく話せるか」 「今は、時がございません。信用していただけるのなら、今夜にでも」 「分かった、では、御店の近くに柊屋と言う商人宿があろう、そこへ今夜」喜助はやはり足音も立てず離れて行った。
「晋助様、大変申し訳ございませんでした。その・・殿方の履いている大きなわらじが入り口にあったので、気が動転してしまい、面目次第もございません」 「小夜殿、こちらこそいきなり上がり込んでしまい、驚かせてしまいました」 「それで今、友江様に秀吾の話をしようと思っていたところです」 「あの、兄上は元気ですか?」 「はい、それはもう極めて」笑顔になった小夜に、晋助は「そうだ、秀吾から、お二人に手紙を預かっております」と言って脇に置いた行李から、手紙を二通取り出し、小夜に差し出した。「婆婆様、起き上がれますか」 「背中を支えておくれ」 「友江様、それはわたくしが」 「いけません、晋助殿はお客様、そのようなことは・・」 「いえ友江様、秀吾に言われております。必ず力になってほしいと」 「まあ、秀吾がそのようなことを」咄嗟に思いついたことを言ったが、友江は喜んだようだ。「さあ、ゆっくりとです。起こしますぞ」晋助は背中を支え起き上がらせた。痩せた背中は骨に薄皮が張り付いた軽い背中だった。友江の傍に小夜も裾を払って正座をして、友江あての手紙を読み上げた。それは、小夜の婚儀の破談に腹を立て、廣瀬の次男に手を上げて、処払いをくらい、お家の名に傷をつけた事、自分の至らなさを詫び。二人を残して何の力にもなれないことをひたすら詫びていた。友江は涙を流し、小夜は最後は読み上げることもできず、嗚咽を繰り返すばかりだった。晋助は友江をゆっくりと寝かせ、二人に「友江様、小夜様、少し私の話も聞いていただけまいか」と促し、二人を落ち着かせた。「私と秀吾は今、松本藩領の四ケ庄沢渡村に住んでおります。我らの活計は薬草を薬問屋に売る事です」小夜は目を丸くし、まぁ、と声を上げた。「山へ分け入り薬草を採取し、日に干したり、一度水にさらしたりと手を加え、最後は薬研を引いて粉にします」 「晋助様、それを兄が」 「そうです。一通りのことは秀吾もすべてやっております。ある程度の薬の種類と量が整えば、松本城下の商人町へ売りに行くのです。それで毎日の活計を立てております。さらに今年からは、住まいの脇に畑を作り薬草を移植して育てています。しかし、住まいと言っても小屋のようなものでございます。まぁ、我ら二人が住むには事欠かないのですが。友江と小夜はうなずきながら聞いていたが「何故、兄様は晋助様とお近づきになられたのでしょう」と問うてきた。晋助は思案したが「お二人には本当の事を話します」と言って住まいの近くで倒れていたところを助けたり、その後の暮らしぶりを続けて話した。ただ、秀吾には武士を捨ててもらったと付け加えて話した。時が流れ、処払いが解けたならまた武士に戻るもよし、今の経験を生かして暮らすも良しと話した。晋助は外を眺め「すみません、こんな時間まで長居をして。これより、何処かで旅籠を探しますので、これで失礼します」と言ったが、友江が「なりません。旅籠は川向こうにしかございませんので、どうか晋助さん、今日はここへお泊り下さい」 「しかし、いくら秀吾の使いとはいえ、お二人の女子のお住まいに泊まるなど、できません」「わたくしはもう女子などではありません。ただの婆でございます。それに、秀吾の命を助けていただいた方をこのまま返すわけにはまいりません。どうか、どうか後生でございます。今夜だけでも」友江は引かなかった。晋助は「それでは、今夜はおせわになります。」と頭を下げた。友江は小夜に「小夜、晋助さんの御着替えをお手伝いしなさい。楽な格好に着替えてもらって。そうだ、秀吾の小袖があるでしょう、お使いいただいて」友江は小夜を促して、晋助の着替えに追い立てた。奥の部屋に案内され「ここは兄が使っていた部屋です、今夜はここでお休みください」それから、箪笥の奥から秀吾の物と思われる、小袖を引き出し足元に、そっと置くと、晋助の後ろから「帯を解きますよ」と言って絞めていた帯を緩めた。「これは、小夜殿かたじけない」「いえその様なこと」と言った切り、二人は黙って着替えをすすめた。着替えが終わると晋助は「友江様はどこが悪いのですか」と聞いた。小夜は「わかりません。ただ、脈が乱れているそうです。婆婆様は大丈夫と言うのですが、お医者様にかかるお金が当家にはもうありませんので、どうしたものかと思うているところでございます」「脈ですか・・・わたしは医者ではありませんが、薬には精通しております。友江さまに相談しなければなりませんが、薬の処方はできると思います。それから、気を立て直すこともできるかもしれません」 「本当ですか」 「多少のお力にはなれると思います」見ると、小夜は笑顔になって、本当に喜んでいるようだった。晋助は薬を運んできたことが生かせたと、やはり喜んだ。解いた行李の中から薬を取り出し、友江の所へ戻った。小夜が「婆婆さま、晋助様が動悸の治るお薬をお持ちだそうです」と告げている。入ってきた晋助を見つめて「まあ、小袖がよく似合うこと。良かったわ」と呟いた。晋助は友江に「友江様、私に脈を見せてもらえませんか」と聞いた「どうせ、もう長くはありません。晋助さんの思う様に見ていただければ」「それでは」と言い、手首の脈を診た。確かに強弱のある乱れた脈だった。晋助は首筋にも手を当て、更に瞼の下を広げてみた。貧血もあるなと思い。今度は体を起こし、肩甲骨に手を当て目をつぶった。しばらくすると友江は「暖かい、とても暖かくて気持ちがいい」と言って顔をほころばせた。小夜は傍に座り手を握っていたが、その小夜も「本当に暖かい、いつも婆婆さまの手はとても冷たいのに」といい晋助の方を見ている。そうしているうちに、友江の顔に血色が戻り、生気が満ちてきた。背中に置いた手をゆっくりと放し、一つ息を吐いた。小夜は「あれは何なのですか、晋助様」と顔をみた。「気です」そう答えた。「気?」 「誰もが持っていますが、気が付かない人が多いようです。気が遠くなるとか、気になる等と、言うではありませんか。目には見えませんが、感じるものです。そう、先ほど小夜様が、大声で婆婆さま、と叫んで飛び込んでこられた、あれも気でございます。声に気を込めたものでございます」小夜は再び顔を赤くし、うつむいた。「あのように気を声に乗せられたら、聞いた方は怖れ慄くというものでございます」いよいよ小夜は顔を真っ赤にして袖に顔をうずめてもがくようにしている。「もうお願いです。おやめ下さい。私、穴があったら入りとうございます」と消え入るような声で懇願している。「はい、ではもう二度と申しません。ですが気と言うものは様々な形に変えることが出来ます。友江様に施したものも、その一つです。私は幼少のころから、体術と言うものを近くの町道場で習っておりました。剣術の強いお武家様も刀に気を込めておられるのです。その体術には活法と言う蘇生や治療も含まれます。それを友江様に施しました。後は夕餉の後に薬を処方しましょう。友江様は今、お痩せになっています。そのようなときは強いお薬は禁物です。地黄や甘草と言う薬草が動悸や脈には効きます。ですが少し薄めたものから始めましょう」そう言うと「それでは夕餉の支度にとりかかります」と小夜が言う。晋助は「私も手伝います」と言って立ち上がった。「いえ、晋助様はお客様。お座りになってお待ちください」と小夜は言ったが、晋助は、「それは困ります。女子二人での生活じゃ、全てに万事頼んだぞ、と秀吾には言われております。それに、あれを我が家の女子に食わせてやってくれと言われております。ですから何卒」「あれとは何です」「それは、あれですよ。まぁ、出来てからのお楽しみということで」小夜と晋助は勝手に向かった。
