沢渡は紅葉の盛りを過ぎて、葉を落とした木々の間からは木漏れ日が差し、森が明るくなった。「では、行ってくる。すまんが後の事を頼む。」「お任せください晋助さん、留守の間も滞りなく進めてまいりますので、万事安心して出かけください。」「ありがとう喜助。」秀吾は「わしは夕方には戻るゆえ、晩飯は頼んだぞ。」「晋助さんほどにはできませんが、炙った岩魚のお頭で出汁を取って牛蒡と山鳥の山賊鍋を作って待っております秀吾さん」出かけた二人が落ち葉を踏んで歩くとかさかさと乾いた葉音といつもより柔らかく感じる地面が心地いい。「ようやく京に帰ることが出来るなぁ。」「うむ、これも秀吾や喜助、橘屋のお詩乃さんのお陰だ。」「それにこの日和よ、旅立つには絶好の日本晴れだ。」「久しぶりに心が浮き立つような気持ちだ。つい先日まで京へは二度と足を踏み入れることはできないと絶望していたのに、それが全てひっくり返ったのはやはり皆のお陰だ。そして待ちに待ったこの日がとうとう来たのだ。決してあの日に帰れるわけではないが、今、新たな夢を心に描いて歩みを進めることが出来るのが何よりうれしい。」「それはそうと、小夜は準備が出来ておるかのう。」「なに、橘屋の女将がついておるのだ、あれこれと世話を焼いて小夜殿は荷が膨らんでどうやって荷を減らすかに苦心しておるのではないか。」「はっ、はっ、はっ、違いない荷車を引いて行かねばならんのではないか。」などと軽口をたたいておるうちに橘屋にたどり着いた。「おはようございます。沢渡の晋助でございます。」「晋助さん、女将さんがいつものように裏へ回ってほしいと」「かしこまりました、番頭さん。では裏へ参ります。」二人は裏口へ回り、いったん荷を下ろした。「今日は薬草の荷は少ないが、致し方ないな。」「うむ、京より戻ったら身を粉にして働くから許せ、秀吾。」「そのようなつもりで言ったのではない、ただ、いつもより少ないと・・・」「お待たせしました。晋助さん、秀吾さん。」廊下の奥から女将のお詩乃が声をかけてきた。「あら、小夜さん何してんの早よ、おいでぇな。」奥へ戻って女将は小夜の手を引いて連れてきた。「はい、お待たせしました。」そこには淡い鶯色の小袖を尻端折にして、手には日焼けを防ぐ手甲、頭には菅笠、脚には脚絆の姿で小夜が現れた。その粋な姉さん姿を晋助と秀吾が見上げていたところ、「その様に、しげしげと見ないでください。恥ずかしゅうございます。」「いや、悪かった。そのようなつもりはなかったのだが、馬子にも衣裳とはこの事かの、なあ晋助。」「小夜殿、美しゅうございますぞ。旅が一層楽しみになりました。」「その様に揶揄うのはおやめください、顔から火が出そうです。」「はいはい、晋助さんは後でゆっくり旅姿を見たらよろしいんやからその辺にしといて。そやけど可愛らしいやろ、うちが若いころ来てた小袖やけど、よう似合うわ。なあ、秀吾さんもそう思うやろ。」「うむ、小夜のために誂えたようにように似合っておる。女将、小夜のために隅々まで旅支度を任せてかたじけない。兄として小夜には何もしてやれなんだが、女将があってこそ、このように整うことが出来た、礼を言う。」「そんな、かしこまらんでもええのよ秀吾さん。縁があってこうして集ってるのよ、誰かのために何かしてあげられるならそれでいいのよ。秀吾さんかて誰か目の前で困ってたら助けてあげたりするやろ。そやけど縁がない人は助けてあげられへん。縁ってそんなもんちゃう。」「ただ、礼は言わせてほしいのだ本当にありがたき事、このとおりだ。」秀吾は頭を下げた。晋助も小夜も頭を垂れた。「なんや照れるなぁ、そやけど今はもう霜月やし、日暮れも早いさかい晋助さんと小夜さんは早よ行きよし。」「それでは女将さん行ってまいります。して小夜殿、荷はどうされた。」お詩乃が「ああ今、持ってこさせるわ。・・・文吉、小夜さんの荷をもってきて。」「はい、ただいま・・」奥から手代の文吉が持ってきたのはうず高く積みあがった行李の山だった。晋助は「商売でも始めるつもりですか・・・」と途方に暮れた。
小夜には女将が持たせた行李の四つを持ってもらった。ひと悶着あったが荷は少し減らすことが出来た。「小夜殿、荷は重くはありませんか。」「はい、大丈夫でございます。それより晋助様の方こそ重くはありませんか。」「軽くはありませんが、これは橘屋の女将さんからの配慮。私を始め、小夜殿、当家の実家など、それぞれへの気遣いと思えば重くはありません。」「そうですね。本当にありがたき事。あまりに重ければ、この小夜、あと二つ、三つの行李でしたら、お持ちしますわ。」「そうですか、それでは早速、この大きな行李を三つお願いします。」「・・・本気ですか。」「・・・冗談です・・・顔が真剣でございましたぞ、小夜殿。」「もう、晋助様はいつも私の事を揶揄って。」「いや、小夜様は揶揄いがございますので。」小夜は嬉しかった。何かが大きく変わり始めるような予感が膨らんでいることに。縁談が破談となり、兄上が足利を去り、婆様も病を患い、先行きの見えない不安に押しつぶされそうだった。それが、ある日、晋助様が訪ねて来られ、次いで喜助さんが訪ねて来られ、婆様は亡くなられたが、喜助さんと共に送り出すことが出来た。喜助さんの提案で兄上、晋助様のもとに来ることが出来た。橘屋の女将、お詩乃さんに可愛がられ、いま晋助様の国元の京へ二人、足を運んでいる。めぐり来る季節のように幸せが花開く、こんなに幸せで良いのだろうかと、怖くなるくらいだ。けれど、今はそんな不安はどこかに追いやろう、続く幸せは待っているだけだはいずれ去っていく、私も誰かのために手を差し伸べる行動を起こさなければならない。私に手を差し伸べてくれた皆様のためにも。小夜は顔を上げ横顔を見た、荷の重さなど気にもせぬように歩くその人の袖をそっと掴んだ。
松本藩領から十日の日程で歩んできた道も守山まで来た、明日中には京都に着く。しかし晋助は落ち着きの悪さに口数が減っていた。「晋助様・・・晋助様!」小夜は声を大きくした。ハッとした晋助は素っ頓狂な声を上げ「ハイッ!」と裏返った声を発した。周りの人達がこちらを見たり振り返って怪訝な顔をしている。「どうされたのです、眉根に皺をよせて怖い顔をしておられました。」「すみません。考え事をしておりました・・」「晋助様、とにかく一度休みましょう。そこの茶店に。」茶店で茶を頼み、荷を下ろし腰掛けた。「晋助様、要らぬ世話かもわかりませんが、何をお考えでした・・」「ふと、わしは本当に、京へ足を踏み入れても良いものかと。この二年、京の事は何も知らない、知る由も無かったが、人を傷つけたことに違いない。御上の判断は無罪であったが、人々の口には戸を閉てられぬと思うと怖くなってしまったのだ。」小夜は晋助様と名を呼んで、「バシッ」と背中を叩いた。「しっかりなさいませ・・・晋助様はなすべき事をなさった、確かに誰かを傷つけたかもしれません、がしかし、それをしなければ大切な・・命と引き換えにすらできる喜助さんを失わなければならなかったかもしれないのですよ。私も、兄も喜助さんも、お詩乃さんも皆、例え京の人々が晋助様を悪く言ったとしても、私達は晋助様を信じています。どうか胸を張って京へお入りください。」小夜殿の言う通りだった。保身のために行ったことでは無かった。ましてや喜助を助けた事は弟を助けるのと同じことだった。晋助は顔を上げ「小夜殿、ありがとう。情けないところをお見せした・・小夜殿の申される通りだ。世間がどう見るかなどのどうでもいい事に惑わされ、己を見失っておりました。感謝しております、このとおりだ。」と言って頭を下げた。「なのをその様な事、頭を上げてください。出すぎた真似をと恥じております。こちらこそお許しください。」「いや誠に‥」茶屋の娘が「あの・・」と言って苦笑いをしている。二人とも笑顔になって茶を受け取った。
昼過ぎに三条橋大橋に着いた。沢山の人が大来する橋を渡りながら、川面を眺め、変わらず流れているその流れに懐かしさを感じた。既に先ぶれとして飛脚に手紙を託しておいたが、幼いころから過ごした我が家が近づくとドキドキと胸が高鳴った。道すがら小夜に「その左右の道が河原町通リ、この辺りは材木問屋や高瀬舟の運輸が盛んで歌舞伎櫓もたっているところなんです。その高瀬川のほとりに納涼床を組んで暑いころは茶屋や料理屋が並び川風に涼みながら食事をいただいたりするのです。」「晋助様も行かれたことがございますの。」「はい、父に連れられて行ったことも御座いますし、商売の絡みなどから一献傾けることも何度かありました。」「今は寒うございますし、やってはいないのですか」「いえ、年中行事ですので、望めば外で飲食も可能です。今は掘り炬燵のように火鉢を入れてやっております。手あぶりも御座いますゆえ寒くはありません。」そうして話しているうちに、二条通りの角まで来た。「その先を西に曲がりしばらく進むと右側に桔梗屋の大きな看板があります。そこが我が家です。」その角を曲がり、間もなく我が家が見えてくるその時「晋助・・・晋助じゃないのか」と声をかけてきたものがいる。そちらを向くと、そこには染料や絵具を取り扱う栂屋の跡取りで幼馴染の兼松が立っていた。「兼松か・・」「おおっやはり晋助か。久しいのう。元気か。」「うむ、元気にしている。」「どうしておった。とんと噂にも上らず、心配しておったのだぞ。」「お前も知っておろう、二年前の出来事を・・・」「それは話に聞いていたが、お咎め無しであったのだろう。町の噂でも暴漢から奉公人を守って相手をねじ伏せたと聞いておったが、お前の姿を見る事が亡くなったから、その奉公人の喜助と申したかな・・いつぞや聞いたところ、出奔したと聞いておった。その喜助が晋助は悪くないと、涙ながらに申しておった。お前も不憫で会ったな。」「すまぬ兼松。今、二年ぶりにこの京へ帰ってきたところだ。急いで父、母に合わねばならんのだ、改めて話そう、今日はここまでだ。」そう言ってそこを離れた。「晋助様の幼馴染ですか。」「そうだ、そこに栂屋と言う看板があろう、そこの跡取りで兼松と言う。絵具や染料などを扱っている御店だ。」「やはり生まれ育ったこの京にはなじみの方が多くいらっしゃるのですね。」「気づかれぬので、こちらから挨拶はせんが、そこ、ここに見知った顔ががいる。」と話していたところ桔梗屋の前に着いた。意を決して暖簾をくぐった。店中から視線が注がれ、「いらっしゃいませ」の声がかかった。晋助は菅笠を取り顔を上げた。一言「晋助です。ただいま戻りました」と告げた。番頭の清兵衛がわなわなと震え、「し・し・し・晋助様」とかすれた小さな声で呟くように言った。声を取り戻した清兵衛は大きな声で「早う旦那様と、宗八郎様を」と告げた。
