廊下の突き当たりの壁にに設えた花器には花が生けてある。その角を曲がればいつも薬草を吟味する縁側とは違う、手入れの行き届いた庭の木々が紅葉している。雨戸こそ無いが障子は立ててあるその部屋はすでに手炙りと火鉢で暖かかった。通された晋助、秀吾、小夜の三人は出された茶をすすり、一息ついた。「そやけど、見れば見るほど小夜さんは可愛らしいなぁ。」小夜は俯いてもじもじしている。何故か秀吾は照れくさそうに額をぽりぽりと掻き、晋助は自慢げに胸を張っている。「いやいや、何で秀吾さんが照れくさそうにしてるんです。それに、晋助さんは自慢げに胸張って。何ですの?」「いや、松本城下でもその美貌で名高い橘屋の女将に褒められたとあれば照れ臭くもなる。」「いや違いますよ、秀吾さんを褒めたんと。」「良いのだ、我が妹が褒められた事は何よりじゃ!」「晋助さんはどうなんです?」「いや、それは、秀吾の兄上と同じですよ。ねえ兄上。」また、ニヤリとした秀吾は「何を兄上などと・・晋助は・・持ち上げよって、外でそのように言うでない、気恥ずかしいわ。」「何を言われます兄上。この弟、晋助どこまでも兄上について参りますぞ。」お詩乃は「いや・・・もうええわ!いつまでやるんですか。」「そうなんですよ、女将さん、兄と晋助さんはこの三文芝居にすっかりはまってしまい、このように馬鹿な芝居をしょっちゅうやっておるのです。」「何です。このお馬鹿兄弟、やめてしまえ!」二人は肩を落とし「はぁい」と返事をした。「しゃんと、しなさい。はぁいや無い。はい!ですやろ」「はい。」
「それで小夜さん、こっちに来たのはええけど、これからどうされます。」「はい、晋助さんから提案があり、春までこちらにお世話になろうかと思っております。」「ええっ。あんな山の中の掘建て小屋に三月も四月も?!。」「はい。」「それはあかん!・・・」「あかん?」「ダメです、こんな可愛いらしい、今よ盛りの娘を、お風呂も無いような掘建て小屋には置いておけません。」「では、どうすれば。」「小夜さんはうちとこで、お預かりします。雪で家が潰れてしまうかもわからないような所に、置いておけますかいな。それにむさ苦しい3人の男の中では息が詰まりますさかいな。うちの店で働きながら春までおったらええし、晋助さんも秀吾さんも足繁く通ったらよろしいやろ、それにその方が安心ちゃう。」「しかし、それで良いのか、女将。」「私がええ言うたら、ええんです。あら、晋助さんは不服そうやけど、どうなん?」「いや、そうでは無い。ただ、冬が訪れる前に京へ行かねばならん、出来ればその旅に小夜殿を連れて行こうかと考えておった。」「まぁ、それは御両親に小夜さんを紹介するつもりなのですか。」「いや、まだ小夜殿の了解を取っておらん。」「小夜さん、晋助さんはそう言うてるけど、どうなん?」「それは晋助様がお連れいただけると言うなら、私は京へ参りたいと思います。」「ほな決まりや、そやけどそれまではうちとこでお預かりしますよ。着替えもぎょうさん持ってきてませんやろ、着物はうちが若い頃着てたのがあるさかいに、御両親に会う時はそれ着て行ったらええし。晋助さんも秀吾さんもそれでええやろ。」「わしらは女将には逆らえん。すまんが、準備を整えてやってくれ。」秀吾はそう言った。晋助も「宜しくお願いします。出立は半月後に」と言う他なかった。
小夜を残して、家路についた。「今、帰ったぞ」と声をかけた。黒彦は立ち上がり、大きな欠伸と前肢、後肢の伸びをした。戸を閉めて上がり込むと、喜助がお帰りなさいまし、晋助さん、秀吾さん、おやっ小夜様はどうなさいました。」「小夜は人質に取られた。」と秀吾が言った。晋助が「わしらでは及びもしない手練れに取られた。」とガックリと肩を落とした。「本当ですか、晋助さん、秀吾さんのお二人がかかっても敵わぬ手練れとはいったい誰なのです。」「松本藩領随一の、くノ一だろうな。」「しかし、それでも小夜様を何としてでも取り戻さねばならないでしょう。私も加勢します直ちに参りましょう。」晋助と秀吾は笑い始めた。手練れに取られたのは本当だが、それは橘屋の女将だ。」「なんです、手練れとは女将さんですか。しかし、どのような経緯で小夜様は橘屋さんへ留まられたのですか。」「うむっ」と言ってそれまでの事を晋助と秀吾は喜助に話して聞かせた。「しかし、少し残念ですね、せっかく日々が華やかになったと言うのに・・・」「そうだな。日々の賑わいは男同士では冴えんのう。」「それとな喜助、半月後にわしと小夜殿は京へ行く事になった。」「いよいよ京へ行かれるのですね。」「しかし、まだお前を京へ帰してやるわけにはいかぬ。それに、お前の処遇はまだわからぬ。まったくわしの一存だがお前をわしの下へ留め置きたい。この話は秀吾にも聞いて欲しい。わしは足利より帰った頃から考えておった・・」この松本藩領の沢渡村は薬草の宝庫だ。それに時間はかかったが、薬草を育てる方法も整えてきた。これほど素晴らしい薬草を採取し、この手で育て、お困りの人や、苦しんでおられる人に届けられることの喜びは京では味わえなかったことだ。意図したことではないが、秀吾と出会い、もうなくなってしまったがこの庵の持ち主の源蔵に助けられ、橘屋の女将と昵懇となった。小夜殿と出会い心を通わせ、喜助にも苦労を掛けたが、二年前のあの出来事もお咎め無という事になった。だが、父上は京の地へ帰れと申されるだろう。そこでだ、わしは覚悟をもって父上を説得せねばならない。それは、この地で桔梗屋の名を冠した、桔梗屋代馬と名乗り、薬草の採取、育成を生業とする商売を始めようと思う。主な取引先は京都桔梗屋と松本橘屋に薬を卸すことから始めようと思う。秀吾、お主には番頭をやってもらおうと思う。であるから本当の意味で武士を捨て、足利へ戻る事も考え直してくれ。先に言っておくが、これはわしからの頼みだ、各々自分の考える人生がある。もちろん断ってくれても構わぬ。まだ、とても小さい商売が始まったところだ。畑も採取場も広げなければならない。人も集めねばならんだろう。卸売りに特化した商売をしようと思っている。そこでだ、喜助、父上を説得出来たら、お前はわしの代理として新規開拓や各種の帳簿など手広く実務をこなしてもらいたいと思っている。二人ともどうだ、忌憚のない意見を聞かせて欲しい。」「うむ、わしはもう腹を括っておる、足利へは戻らぬ、墓や家屋としての家の処分もせねばならぬだろうが、この地に骨をうずめるつもりだ。わしに番頭が務まるかどうかは分からぬが、出来ることから始めてみようと思う。晋助よろしく頼む。」「そうか、わしとて何もかもが手探りじゃ、皆で力を合わせて始めようではないか。」「喜助はどうだ、考えてみてくれんか。」「考えるまでも御座いません。二年前のあの出来事で私は暴漢に襲われ死んでいたかもしれません。それをお助けいただいたご恩は尽くしても尽くしきれません。私は晋助様について行きます。」「ありがとう喜助。だがお前が一番不憫だ。わしはさっきも話した通り、この地で二年、多くの出会いがあり、生かされた。だから、恩義など感じることは無い、お前の人生をお前がどう生きたいのかだ。もちろん日々の活計は必要だろう、今のようでは大した儲けにはならん。だから今後、商売を大きく広げていきたいのだ。そこにお前の夢を乗せられるかだ。」「私も、あれから二年、のうのうとしていたわけではございません。晋助さんに申しつけられた通り、御店を盛り上げて欲しいと言われたあの日から懸命に働きました。わからぬことは旦那様他、皆様にお伺いして、とにかく晋助さんがお戻りになるまで御店を盛り上げようと懸命でした。自分で言うのはおこがましいのですが御店の評判には一助の助けになったかと自負しております。今度は桔梗屋代馬のために一旗揚げたいと思います。」「うむ、喜助の評判はすこぶる良いものだとわしの目にも移ったぞ。何しろ、京の街を歩けば、喜助を見つけた人々は商売がらみではあろうが挨拶がたえぬ。皆、親しげに声をかけて来ておったことには、わしも感心したぞ。」「そうか、ならば尚更、喜助は手放せんな、力を貸してくれ。」「はい、晋助さん」「よし、今日は桔梗屋代馬の始まりだ、喜助も一杯だけ付き合え、秀吾、今夜は飲もうぞ。」「その言葉を待っておった。」夕餉の準備を整え、互いに盃に注ぎ、酌み交わした。半時が過ぎる頃には、喜助は顔を真っ赤にして、ろれつも曖昧になった。「喜助、もう寝ろ。後片づけは良いから。」「では、お先に失礼します。」と告げ床に就いた。「・・・晋助、お前が将来について、色々と細かいことまで考えておったとはなぁ、わしなど、漠然として、どう暮らしていくのか先のことなどあまり考えてもいなかった。」「いや秀吾、先ほども言ったが、これはわしの夢だ。ただ秀吾と一年を共に過ごし、人手があれば、この地は薬草の宝庫だ。商売ができると踏んだのだ。それで知識も経験も積んできた秀吾は商売の戦力としてなくてはならないのだ。」「だが、問題はお前の親父殿だ、二年余りも離れて暮らし、やっと見つかったのだ、京に暮らし商売を盛り立てて欲しいと願うのは当然と言えば当然であろうな」「そこだ、だがこの地は薬草の宝庫だ、これ程質の高い薬草などどこにある。それが独占的に優遇されて入ってくるとなれば父上にとっても、この上ない程いい話に違いない、それに、桔梗屋の名を関した別邸となれば、世間にも通りがいい。更に小夜殿を連れて行くと言う事になれば押しも効く・・・とまぁ事はそう簡単には運ばぬと思うが、考えてばかりおってもしょうがない、後は当たって砕けろだ。」「まあ、どんな形になるにせよ二人で京へ行ってこい。」
