手紙を熟読した格之助も震えた。手紙には「父上、秀吾が持ち込んだ物は、私が採取した薬草の類です。いつか、父上に聞いた薬草の宝庫の山裾に暮らし、この薬草を採取しました。どれもこれも素晴らしい薬草です。ただ、罪人の私は、戻ることは叶いませんので、秀吾に託しました。どうか、お健やかにお過ごしになる事を祈っております。 晋助」と結んであった。晋助が自分を、罪人と告げた事が悲しかった。お清の手紙も本人にしかわからぬ意図があったようで、へたり込んだお清は、手紙を胸に抱き、泣き崩れている。宗八郎は嘘だ嘘だと信じられない様子だ。格之助はお清と宗八郎に落ち着くようにと伝え、喜助に「もう一度秀吾殿にお出で頂くように伝えてほしい。極めて丁寧にお願いいたせ」 「はい、旦那様」喜助は、畳の呆然とする、この家族をよそに廊下を進み、表に出た。癪に障った。ただの、いち奉公人である小僧がこんな気持ちになってはならぬと思っても、何故もっと早く進まぬのか、何故最後まで話を聞けぬのかと、心が憤る。早く晋助様に会いたい。その事だけが頭の中を駆け巡り、叫びだしたいようだった。出田と歩みは早く、今の気持ちを表しているようだ。気付くと柊屋の前についていた。その二階から、秀吾が「喜助、何を腹に据えかねている」と声をかけてきた。「秀吾様、私は私は」と言ったまま声が出ない。「まあいい、あがれ」秀吾に執り成され、俯いたまま、柊屋へ入った。開け放たれた襖から中へ入り、秀吾の前で膝を降り、頭を下げた。「今一度、主人の元へお出で頂けますか」 「それは良いが、お前は何を焦っておる。喜助、どっしりと構えろ、何事にも動じぬ心を持たねば、また不覚をとるぞ。しっかりいたせ」涙が頬を伝って落ちた。それを拭って顔を上げた。「この二年、晋助様に言いつけられた事も懸命に取り組んでまいりました。ですが、ともすれば今すぐに飛び出したいような、はじけ飛ぶような衝動に駆られます。晋助様に早く伝えたいのです。無実であり、罪人などであるはずもありませんと」 「お前の気持ちはよくわかる、が親御殿の気持ちもまた、考えねばならぬ。宗八郎殿もまた、御店を父から譲り受け、預かる店主となられた。何処の馬の骨ともわからぬ男を簡単に信用することはできないであろう。であるならば、寛容な心を持たねばならない。いかがかな」 「喜助はただ頷いた」秀吾の言うとおりだ。落ち着いてどっしりと構えねばならない。「では、参ろうか」と言って秀吾は立ち上がった。
晋助は帰りの道すがら、さっきの出来事を話し始めた。「土手を降りた二人の後を追いました。声が聞こえ、耳をそばだてておりました。私の耳に、(老婆を抱え、女の身一つでは食うにも困ろう、わしの妾になれば・・・)と聞こえたので、藪より礫を放ちました。小夜殿はすぐさまその場を離れましたので、もう一度、礫を放ちました。首の後ろに当たり、男は倒れ込みました。誰だと叫んでいたので、小声で廣瀬、わしは許さんぞ。お前のせいでこの有様だ。必ず、寝首を掻いてやる。闇に気をつけろと藪の中から、そう言ってやりました。つまり、秀吾の怨念のようなものを、名を言わず、その耳に届けてきたのです。後は藪を漕いで、川下に行き、小夜殿に手を振ったのです。」 「まあ、そのようなことをなさっていたのですか、わたくしも石をぶつけてやりとう御座いました。悔しくてなりません」 「小夜殿お気を静めていただけますか。その悔しさは、わしが仇を討っておきましたので、廣瀬も近づいては来ないでしょう」 「晋助様、ありがとうございます。ですがあの男は、またも妾になれと、わたくしに申しました。晋助様の小さき石ではなく、ほらそこの大きな石を投げつけてやりとうございます。」見ると大人の頭ほどの石を指さしている。「参りましたな。小夜殿はお気が強いので本当にやりかねない。廣瀬がそれを聞いたら震えあがって、表を歩くこともできますまいな。」小夜はまた顔を赤くした。「また、わたくしを冷かして。晋助様は意地悪です」そう言った切り、小夜は黙ってしまった。焦ったのは晋助だった。内心、困ったことだ、小夜殿を怒らせてしまったようだ。どうしたものか・・・「小夜殿、今夜の夕餉は何にいたしますかな」と問うてみたが、ぶっきらぼうに、「あるもので、おつくりします」と言うではないか。しまった、完全に怒らせてしまった・・・晋助は泡を食って「さ、さ、さ、小夜殿。小夜殿気持ちも考えず、揶揄うようなことを・・・も、も、も、申し訳御座らん。廣瀬のような無粋な男に妾になれなどと言われ、その上、河原の藪に引き込まれ、さぞや心細かったでしょうに。こちらへ来て仲良くしていただき、調子に乗っておりました事を深くお詫び・・・」そこへ突然、小夜の笑い声が響いた。「あ~はっはっは、あ~はっはっはっは」と大声で笑い「こちらこそ、無礼にも怒ったふりなどして、すみません。仕返しです」晋助はため息を吐き、「慌てふためきましたぞ小夜殿、先ほどの ”あるもので作ります” と言われた冷たき一言には肝が冷えましたぞ。別の言い方をすれば、一刀両断。切れ味鋭き一言でございましたな。いや心底恐れ入りました。この事は秀吾に報告せねば」 「またその様な事を、晋助様の夕餉はありませんよ。」晋助は大げさに「お許し下され、お大臣様」とひれ伏したふりをした。すると小夜も、「ならぬ、そちの夕餉は抜きじゃ」と胸を張る。さらに晋助は「何卒、なにとぞお許しを」と言うと二人は目を合わせて、笑い出した。笑い転げた拍子に、よろけた小夜を晋助は抱き留めた。屋敷はすぐそこだが、日の落ちた夕焼けの薄明かりが、わずかに二人を照らしていた。「すみません」と言って立ち直らせ、胸を離そうとした晋助の胸に小夜は額を押し付けた。鼓動の高鳴りが静けさの中に響き渡るようだった。小夜は静かに「これっきりです」と一言だけ呟いた。闇が濃くなり、二人の姿は消え入るように溶けていった。
部屋に通された秀吾の前には晋助の家族が三人並んでいた。 「父の格之助が、先ほどは失礼いしました。どうかお許しを」と言って両手をついて頭を下げた。母、清も長男、宗八郎も同じように頭を下げた。「その上で秀吾様に何か失礼があれば、誰なりとも退出させます。どうかご容赦下さい」と格之助は重ねて詫びた。「格之助殿、ご子息の事です、誰とて不安な時を過ごされたはず、それぞれの立場もお有りでしょうが、まずはお気持ちを治めて、わしの話を聞いて頂きたい」 「ありがとうございます。それではお聞かせ願えますでしょうか」 「はい、恥ずかしながら晋助との出会いは・・・」と話し始めた。茶を運んできた喜助が部屋を後にしようとしたが、秀吾は格之助に許可を得て、喜助にもその場に残ってもらった。晋助に助けられたこと、その一年前にやはり晋助もマタギに助けられたこと、山で薬草を採取して薬を作っている事、それを松本藩領の薬種屋の橘屋に卸している事、互いに国元に帰れなくなった事、しかし、親兄弟の安否や商いの具合が気になっている事などや生活の全てを話した。「格之助殿、最後にお聞きしたいのですが、晋助の許嫁、お雪殿と申されたか、いかがなされていますか」 「はい、それはお元気に成されていますが、それは晋助がその事を気遣って秀吾様にお伺いを立てたのですか」 「いや、直接わしに願い出たわけではない。だが、ある日二人で酒を酌み交わし、互いに秘事を打ち明けた。その話の折、お雪殿の名が出て、遠い目をして、罪人のわしには、もう戻る事は出来ない場所だと。肩を落としておった」 「そうですか、残念ながらそのお雪とのお婚儀は破談となりました。お雪は小間物屋の娘御で、晋助との婚儀をとても楽しみにしておりましたが、晋助本人がおりません。処罰もございませんでしたが、今よ盛りの美しき娘を、いつまでも待たせるわけには参りませんので、私どもの方から、お断りに伺った次第です。それでもお雪は晋助を待つと言っておりましたが、先日、嫁ぎ先が決まったとお聞きしました。」 「そうでしたか。晋助にとっては残念なことですが、お雪殿の幸せをお祈りいたそう。・・・さて、細かなことは別として、大まかには、これが今の晋助の生活や毎日です。他に何か聞きたいことはございますかな」 「・・・」 「この二年の歳月を、ほんのひと時ほどで話したわけです。お聞きしたいことは山ほどあるかと思いますが、何から聞いていいのかわかりますまい、もう、しばらくここにおりますので、また呼び出していただければ何なりと話します。本日はこれにて」と言って頭を下げた。「お待ちください秀吾様、本日これよりは、このお桔梗屋にお泊りいただけませんか。なにとぞお頼み申します」「しかし、ご迷惑ではありませんか。」「迷惑など、とんでもございません。是非にお泊り下さい」格之助は頑なな表情を秀吾に向けた。「そう仰られるならば」秀吾はその言葉を素直に受け入れた。その場は一旦お開きとなり各々部屋を出ていった。格之助は「晋助より届いた薬草を見させて頂きました、特にこの苔桃。今まで拝見した物の中で一二を争う品質でございました。これを代馬の山中で晋助が採取した物なのですか」 「いかにも。彼奴は山全体を見渡し、方角を定め、どちらから風が吹くのか、日当たりの時間などを検討し、見極め、山に入る。先日、見極めた山へ赴いたのですが、急な斜面であったが、手鉤を使って這い上った。「手鉤とは何でございますか。」 「一尺程の柄の先に鉄の爪を付けたものだ。」 「なんとその様なものが」 「人が容易に近寄れぬその斜面の先にはあふれるほどの苔桃が群生しておった。誠、彼奴は正真正銘の薬師だ。」絶句した格之助を尻目に秀吾は思い切って「親父殿、今日は風呂に浸かりたい、お願いできるかな。話はそのあとで」そう言って秀吾は立ち上がった。格之助は「では早速」と先に立って部屋を出た。
昨夜は遅くまで、家族それぞれとはなした。話を進めていく中で、兄の宗八郎の信頼も得られたようだ。宗八郎の手紙には、「跡目を継いで桔梗屋を盛り立てて欲しい、兄上の足を引っ張る事しかできなかったと、後悔の念を滲ませていたという。」だが宗八郎は「晋助は薬種屋としての素質があると思います。もちろん父に学んだこともあるでしょうが、薬種屋としての勘がいい。わたしにはないものを多く持っています。」 「宗八郎さんも素質をお持ちじゃないですか。」 「私など何も・・」 「商いの才は宗八郎さんの方が上と見ましたが。いや晋助は優しすぎるのです。それは悪いことではないが、こと商売に関しては、と思いましてね。」「才などではありません、家訓に八つの掟がございます。それを守っているだけです」「そうですか、では桔梗屋さんは安泰ですね」「そうだといいのですが」と少し気恥しそうにした。
翌朝、喜助の案内で、京見物に出かけた。大通りは人の往来も多く、賑やかだった。建仁寺を案内すると言うので喜助の後をついて行く。右手の角から、遠目にも透き通る肌の、見目麗しい娘に出くわした。喜助は秀吾をその場にとどめ、真っすぐの、その娘に向かって歩みを進めた。喜助は頭を下げ、娘と会釈を交わし、何やらその娘と話し、そしてその娘は秀吾に向けて小さくお辞儀をした。娘と喜助は互いに相槌を打ち、別れた。喜助は秀吾の元に戻り、告げた。「あれがお雪様です」 「何を話した」 「晋助様は生きていると」 「して?」 「明日もう一度お会いします。手紙を渡して欲しいと」
