喜助は夜道を急いで戻ると、桔梗屋の主人、格之助の元へ赴いた。廊下に膝をつき、「旦那様、喜助でございます。お話しがございます。今、よろしいでしょうか」中から、「喜助か、何の用だ。まあ良い入れ」その声に「はい、失礼します」襖をあけ中に入る。格之助は、何やら書付を行っている様で背中だけが見えている。ひざを折って、その背中に「旦那様、晋助様はお元気だそうです」といった。振り向いた格之助は眉間に皺を寄せ、「晋助が元気とはどうゆう事だ」と言った。文机から立ち上がり、格之助は喜助の前で胡坐をかいた。喜助は「実は・・・」と昨日からの秀吾とのやり取りを話した。「それで、その直江秀吾殿は、晋助の事で会いたいと申しておるのか。いつ会える」 「直ぐにでも」 「その先の柊屋に寝泊まりしておるのだな」 「はい、旦那様)「明日の朝一番にお会いして、連れてまいれ。今、どこに住んでいるかは、その時、わしに伝えると申しておるのだな」 「はい」 「喜助、今夜はもう休め、知らせてくれてありがとう」喜助は部屋を後にした。明日はこの二年、止まっていた時間が動き出す。あの日、私に背を向けて去って行った晋助様の後姿を忘れたことは一度もなかった。ただ、涙を流すしかなかった自分が今も悔しい。去り際に晋助様は「父上、母上を助け、御店を盛り上げて欲しい」と仰られた。その言葉を胸に秘め、今日まで懸命に働いたつもりだ。ご贔屓の人や、周りの人達に、よくやっている褒められるが、そんな事はどうでもよかった。自分の代わりに一人、重責を背負われ、去って行った晋助に詫びたかった。懐に入れた晋助からの手紙に触れてみた。少しの緊張に捉えられたが、手紙を広げた。そこにはまず、私を気遣う文章から始まり、しかし、お前には何の罪もない。自分の不徳の致すところだと書き付け。お前の事だ、一途に、懸命に、わしの言うたことを守って働いているのだろうな。幼きお前に無茶なことを押し付けた事を、今は後悔している。許してくれ。と綴ってあった。涙がこぼれ、いくら考えても、何故こんなことになったのだと虚しさに包まれた。気を取り直して、胡坐をかいて、丹田で深い呼吸をして気息を整えた。眠らねば・・明日がある。そう言い聞かせて、余計なことは頭の隅に追いやり、眠った。
翌朝、いつもの時刻に目覚め、体術の稽古を行った。あの日まではここで晋助様が、稽古をしていたが、今は自分がそれをする。旦那様にわがままを言い、柔術の道場に通っている。稽古が終わると、濡れた手拭で体を拭き、もう一度乾いた手拭で体を拭く。着物にそでを通し、表に出た。柊屋の二階に上がり、襖の前で「秀吾様、お目覚めでいらっしゃいますか。喜助です」と問うた「おう、入れ」秀吾は起きていた。明かり障子を開け、外を眺めていた。「喜助、ご主人との面談はどうなった」 「はい、支度が整い次第、お連れするように仰せつかりました」 「そうか、ご主人はどんな具合であった」 「はい、秀吾様との出会いから、昨夜の話を一通り話し、お会いになるかを確かめましたが、旦那様は、感情を押し殺してお聞きでした。まあ、会ってみないと分からないと言うところでしょうか」 「分かった。では早速出かけよう」身支度を整え、まとめた荷を背負って柊屋を出た。店の前まで案内をしてきた喜助は、「今しばらくお待ちください。」と言って店の中へ入った。直ぐに顔を出し、「どうぞこちらへ」と言って促した。店に入るとまだ客入り前の店内に数人の奉公人がいて、一斉に「いらっしゃいませ」と声を上げた。脇を通り奥へ入った。そうすると、庭続きの廊下に出た。「秀吾様、そこに腰を下ろしてください」喜助に言われるままに腰を下ろすと、濡れた手拭で脚を拭われた。そうして廊下を更に進み、左に曲がるとその前の障子に向かって、喜助は「旦那様、秀吾様をお連れしました」と告げた。「入っていただきなさい」 「はい」 「喜助が開けてくれた障子から入り、正座となり、頭を下げた「初めまして、直江秀吾と申します。苗字を名乗りましたが、今はただの秀吾。桔梗屋さんのご主人にお目にかかり、お話しをすべく参上しました」 「秀吾殿、ご丁寧なあいさつを賜り恐縮ですが、今は、もう少し楽に話しませんか」 「それは願ってもない事、ではそのように」 「まあ、脚を崩してください」出された座布団に胡坐をかいた。桔梗屋の主人は茶を運んできた喜助に「喜助は廊下で待ちなさい」と告げると「昨夜、その喜助から、晋助は生きて元気にしていると伺いました。本当ですか」 「本当です。今は訳あって足利に言っています」 「今は?」 「そう、あと五日ほどで帰ってきます」 「どこへ」 「それは、私たちが住んでいるところです」その時、荒い声で「晋助の使い出来たものとは、そこか」 「宗八郎様、中で旦那様とお会いになっておられます。お待ちください」 「どうせ、晋助の名を騙って、金でもせびろうっていう輩だろう」襖が開いた「父上、そのような者の話を聞いてはなりません。何処のどなたか知らぬが、帰っていただこう」 「宗八郎、失礼であろう。誤りなさい」「何故です。こんな見ず知らずの男の話を信じるのですか」 「こちらは晋助の兄上ですか。お初にお目にかかります。直江秀吾と申します。訳あって晋助と一緒に暮らしております、よろしくお願いします」 「晋助と一緒に暮らしている証拠などどこにも無かろう」 「証拠になるかどうかは分かりませんが、預かってきたものをお渡しします。」秀吾は手紙と行李に入れて運んできた薬を差し出した。「ご検分を」父、母、兄とそれぞれへの手紙を差し出した。廊下にいる喜助に「お清を呼べ」と主人の格之助は言った。喜助はすぐさま、お清に声をかけた。「あなた、何事です」格之助は、お清に手紙を渡した。手紙を広げたお清は、わなわなと震え。「晋助が晋助が」と絶句して声も出せずにいた。秀吾は「皆さまでご検討いただければ幸いです」と言って席を立った。廊下に出た秀吾は喜助に「相変わらず、柊屋に寝泊まりしておる」と言って帰って行った。
晋助と小夜はその夜、遅くまで話し込んだ。秀吾は一年ほど前、山裾に倒れていて、今、私の住んでいる庵に運び入れ、介抱して、そこで暮らし始めた事。更にその一年前に晋助自身も倒れていたところを、やはり助けられ生き延びている事。互いにその地にいられなくなったこと。しかし、その国元に残してきた思いを断ち切ることが出来ず、そこで秀吾は私の、私は秀吾の国元へ互いに赴き、様子を知らせようという事になって、今ここに来ている事などを話した。小夜は静かに聞いていたが、秀吾が倒れていたと言ったときは涙をこらえていたようだ。「ところで、小夜殿。何かお困りごとはござらんか。大した事は出来ませんが、話を聞くことくらいはできます。いかがかな」 「そうですね・・困りごとと言えば」そう思案して「兄にお聞き及びかと思いますが、婚儀を白紙に戻した、廣瀬兵部が私の機織りの仕事先に参りまして、勤め先の主人に私を辞めさせろと進言しておるようでございまして、その・・・逆恨みなのでございましょうか、わかりませんが、勤め先の主人も、お武家様が申されている事ゆえ、どうしたものかと申しておりまして・・・それから、先日、わたくしの仕事の帰りに、その廣瀬が声をかけてまいりまして、あろう事か、妾にしてやってもいい、などと言い寄ってきたので・・・わたくしもつい激高してしまい、お前の妾に堕ちるぐらいなら死んだほうがましだと言い放ってしまいました。はしたなかったと後悔しております。」 「はっはっはっ!いや、よう申されました。誠に痛快でございます。」小夜はまた、顔を赤くして、両手で顔を隠している。「されど、そのように小夜様に言い放たれては、廣瀬の次男坊も、男の面子が丸つぶれですなぁ。いや、愉快、愉快」 「笑い事ではありません。私に覚えておれと言っておりましたが、何をされるのかと思おうと・・」 「ふむ、確かに。ではしばらくの間、護衛をいたします。行きかえりの道々、何かあっては秀吾に面目が立ちませんので」 「いえ、そのような大袈裟なことではありませんので、護衛など必要ありません。」 「大丈夫、離れて歩いておりますので、ご心配なき様。大船に乗った気で歩かれよ、お気に召されるな」それから二日ほどは何事もなく過ぎた。その翌日の朝も仕事先へ送って行った。小夜は時々後ろを振り返り、晋助がついてきているか見定める。しかし、小夜にはあまり振り帰ったりしないように伝えてある。仕事先に送り届けた後は、友江の元に戻り、昼には昼食を取らせ、薬も飲ませた。朝、昼、夜と薬を飲ませた友江は血色がすっかり良くなり、話も弾んだ。「友江様、もうしばらく、この薬を続けて飲んでいただきたいのです。ですから薬を調合しておきますので、お飲み下さい」そう告げると晋助は友江の傍で、小さな薬研で薬草を引いたり、調合をした。その間も秀吾の事を話したり、友江からは直江の血筋に関しても聞いた。そうして時を過ごしたのち、小夜を迎えに行ってくると、友江に告げて表に出た。緩やかな丘を越えると左にゆったりと川が流れている。渡良瀬川は秋の日を浴びて、きらきらと輝いている。川を渡って土手を歩いて下ると、そこには大きな商家や武家屋敷が並んでいる。そこから少し離れた奥に、小夜の機織りの仕事場があった。その先の柳の下で、小夜が出てくるのを待った。申の刻過ぎたころ、扉が空いて、小夜が出てきた。辺りを伺って、柳の下の晋助を認めると、小夜は歩き出した。晋助もゆっくりと後を追った。小夜が角を曲がり、晋助は距離を詰めようとしたとき、右から一人の男が小夜の後を追う様に続いた。晋助も素早く角まで走り、その先の二人の後姿を見た。男は少し速足で小夜の後ろを追っているようだ。そうして男は「小夜殿、とその後ろ姿に声をかけた」振り返った小夜の手を掴み、男は渡良瀬川の土手を駆けあがり、その向こうへ見えなくなった。晋助は走った。土手へ駆けあがると、、耳をそばだてた。すると小夜の「おやめ下さい、と言う声が土手下の藪から聞こえた。忍び足で近づき、腰袋の石を一つ掴んだ。川岸で押し問答をしている二人の横顔が見えた。礫を放った。その男の鬢の辺りに礫は当たり、男は「うぁ」と言う呻き声をあげ、うずくまった。その隙に、小夜は男から離れ土手の方へ向かった。「誰だ」と男は叫んだが風の音がざわざわとその藪を揺らし騒めくばかりだった。男はきょろきょろと辺りを見ている。その後頭部に、もう一度石をぶつけた。男は「ごあっ」と言う声をあげ、河原に倒れ込んだ。晋助はその耳に届く程度の声で「廣瀬、わしは恨んでおるぞ。お前のせいでこの有様だ。許さんぞ、必ず寝首を掻いてやる。闇夜に、暗がりに気をつけろ。殺してやる」晋助はその藪をそっと離れた藪の中を川下まで歩き。ようやく土手に上がった。遠くに小夜の姿が見えた。大きく手を振ると、こちらに気づいて駆けてきた。「小夜殿、申し訳ありません。怖い思いをさせました。」 「何があったのです」「それを今からお話しします」そう言って二人は夕暮れ時の間道を連れ立って家路を急いだ。
