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元禄 山野流浪紀 その十一

  1. 私小説
2026/06/08

暮れ六つに喜助が訪ねてきた。西の空にはわずかに赤みが残っているが、日はもう落ちていた。「直江様、お待たせしました。」「喜助殿、御店の仕事はもういいのか」 「はい、本日のものは終わりました」宿の襖を閉めてそう言った。「先に言っておこう、俺の事は秀吾と呼んでくれ、今は武士ではない。商人の形(なり)で来ておるのに、直江様では具合が悪い」「わかりました。それでは秀吾様とお呼びします。それでは私も一つ。私の事は喜助とだけ呼び捨ててください」「持ち上げられるのは気恥ずかしいか」 「そうではありませんが、秀吾様とはあまりに年が離れておりますのでご容赦ください」 「そうか、わかった」互いに沈黙した。秀吾は「お前夕餉は」 「いえ、まだですがそんなことはどうでもいいのです」また沈黙した。「まあ、そう言うな、少し待っておれ」そう言って秀吾は襖を開け廊下に出て階下に降りたようだった。しばらくの後、秀吾は盆に徳利と握り飯を乗せて戻ってきた。「なんだ、喜助。まずは足を崩せ、お前がそのように硬くなっておると、わしも気を遣う。それから、わしも一杯やる。お前は握り飯でも頬張れ」そう言うと、喜助は足を崩した。秀吾も胡坐をかいて、手酌で酒を飲み始めた。「喜助、お前も一杯どうだ」「私の様な、まだ奉公も空けていない者が酒を飲むなどとんでもございません。ご遠慮いたします」「なんじゃ、硬いことを言うのう。まあいい。それで喜助、何を聞きたい。お前に来てもらって済まぬが、今は言えぬこともある。もちろんお前の事は信頼しておるがな」「「わかりました。それで、晋助様はお元気なのですか」「うむ、晋助はうるさいほど元気じゃ」喜助はにっこりと笑顔になり「それでどこにいらっしゃるのですか」 「それだ。それだけは今は言えぬ。それを先に伝えねばならん相手は、晋助の親御殿だ」喜助は、、少しがっかりした様子だった。「すまんな、喜助。それで、わしも大事なことをお前に聞かねばならぬ。もう二年も前になろうか、晋助は喧嘩のようなことから刃傷沙汰を起こして逃げたと申しておったが、今も逃亡した罪人であるのか。どうなのだ」 「違います、罪人などではありません。それに、喧嘩などではありません。私を・・この私を助けて、この地を離れたのです」「そうか、お前を助けて罪を犯したのか」喜助の目から涙が溢れた。喜助は「お願いします。晋助様に合わせてください、」と嗚咽を漏らしながら訴えた。「まてまて喜助、落ち着け。話を詳細に聞きたいのだ、気を高ぶらせるな。とにかく落ち着け」その言葉に喜助は涙を拭いて、顔を上げた。喜助はその時の状況を細かく話し、その後、晋助が旅だった後の事を話し始めた。「晋助様と別れて、私は御店に戻りましたが 何をどうしたらいいのかもわからず、ただ、おろおろしておりました。当たり前ですが、晋助様が暮れ六つを過ぎても戻らず、旦那様も、奥方様も御店に残っていた奉公人もざわつき始めました。隅で下を向いてこぶしを握り締めていた私を旦那様が見つけ、声をかけられました。私は晋助様の言うとおり、事の仔細を話しました。旦那様は奉公人の一人を奉行所に向かわせました。他の奉公人の三人ほどは、私と別れた河原に行かせました。やがて奉行所から役人の方が来られて、また、説明を繰り返しました。お役人は手下の方を天満宮の采配をしている者の所へ走らせました。私はお役人にあれこれと尋問を繰り返されましたが、夜が更けたころ、帰っていきました。翌朝も様々なことを聞かれましたが、お役人は旦那様に。匕首がわき腹に突き刺さった男は寅蔵と言う男で、幸い命に別状はないと仰っていました。天満宮の茶店の方や、参道で様子を見ていた人たちも口々に寅蔵が酒に酔って、匕首を抜いて襲い掛かったと証言してくれたそうです。それから、しばらくして。寅蔵はお縄に付いたそうです。それからも何度か旦那様はお奉行所に足を運び、晋助様のお沙汰がどうなるのかと足を運ばれましたが、ある日、本人不在ではあるが不可抗力により不問とするとのお沙汰でした。秀吾様、これが全てです」 「そうか。お前も不憫であったな、よく話してくれた。では、私もその後の晋助の話を聞かせよう。わしが晋助に会ったのは一年ほど前だ。わしが行き倒れておった所を晋助に助けてもらった。晋助に聞いたところ、さらに、その一年ほど前に、やはり晋助も行き倒れておった所を源蔵と言うマタギに助けられたという。その後、晋助に習って薬草の採取、薬草の扱い方、薬にするための薬研の使い方、他の薬と混ぜあわせる調合法や畑を作り、薬草を移植したり、それを育てる環境を整えたり、商いの方法も学んだ。わしらは山に分け入り薬草を探したり、大きな獣は捕らえることは出来ぬが、兎や鳥などを捕らえて暮らしておる。冬は雪に閉じ込められるから、畑も作り野菜なども育てている。近隣のマタギから鹿の肉を買って、煙でいぶして保存できるようにしたり、茸を集めて干したりと一年中忙しく立ち働いている」喜助はその生活の様子を聞き、顔をほころばせ頷きながら、我がことのように表情を変えて聞いている。「まあ、わしも晋助も互いに行き倒れになるような事があった。それでも好き好んで故郷を離れたわけではない。だからこそ故郷の事は気になるところだ。それで、自分では足を運ぶことは出来ぬことから、わしが晋助の故郷へ、晋助がわしの故郷へと赴くことになったのだ。そうだ喜助、そういえばお前に手紙を預かっておる。その手紙をお前に手渡すが、更に頼みがある。晋助の親御殿に会えるように手配してもらえぬか」 「それは願ってもない事、そのお役目は必ず果たします」 「では先にお前宛の手紙を渡そう、だがここではまだ開けるな。感極まって泣かれるのは困る。帰って一人、思いを受け止めるがよい」少し気恥ずかしそうにした喜助はそれでも笑顔で「はい」と返事をした。「そうだ、喜助。聞きそびれるところだった。お前の足の運び。わしが尾行られたように感じたあれを身に着いたものと申したが、なぜそのようなことが」 「ああ、それはですね。体術です。私は楊心流の体術を学んでおります。その術の一つです」「お前も楊心流の体術を学んでおるのか」 「はい、私はあの日、晋助様に救っていただきましたが、ただ震えているしかありませんでした、ただ守ってもらう事しかできなかった自分を悔いております。今度は私が晋助様を少しでも守れるようになりたいと、旦那様にお願いをしました。お給金はいらないので体術を学ばせて下さいとお願いしました。旦那様は黙ってうなずき、私を道場に通わせてくれました。もう、誰にも負けないように鍛錬を繰り返しております」「ほう、そうか。ならば近いうちに喜助に手合わせを願わねばなるまい。こう見えて、わしもできる。喜助、わしと晋助も毎朝、鍛錬を続けておるぞ。そして晋助は強い。それから、昨日も聞いたが、お雪殿の事を聞けぬか」「それは、私も詳しいことは分かりません。旦那様や女将さんで無いと分からないことです。私はただお雪様を知っているだけなのです」そうか、さて、もう遅い。今夜はもう帰れ、わしはしばらくここに滞在しておるから、親御殿からお許しが出たら知らせてくれ」喜助は大事そうに手紙を懐に入れて帰って行った。

小夜を手伝い、夕餉の支度を始めた。「小夜殿、なんでもお申し付けください。菜切りでも、水汲みでも何なりと」「では、そこの瓶に水を運んでもらえますか」晋助は手桶をもって、表の井戸へ向かった。するすると釣瓶を下ろし、水音か聞こえたら釣瓶縄を引っ張り、水を手桶に移した。何度かそれを繰り返すと水瓶は一杯になった。晋助は「さあ次は何をいたしましょう」と小夜に問うた。「いえ、もう何も」「それでは小夜様、私はここで独り言のように話しておりますので聞いて下さい。日々の事で言えば、私も秀吾も毎日料理をします、秀吾は畑に野菜も作っておりますし、時々兎なども獲って料理します」 「お待ちください、兄が料理をするのですか」「はい、それは毎日。私たちも食っていかなければならないので」 「兄が・・・」まず、朝起きると水を一杯飲み、体術の鍛錬を二人でします、半時ほどはじっくりと行います。それが終わると朝餉です。朝餉はごく簡単な茶の子と餅と味噌汁の質素なものです。季節によって違いますが、薬草を取りに出かけたり、畑の手入れをしたりです。日が高くなるころには薪を拾ったり、鳥を捕まえる罠を見回ったり、やはり兎を取りに行きます」「まあ、兎とはどうやって獲るのですか」「簡単です。石をぶつけるだけです」「本当にそのような方法で兎が獲れるのですか」 「上手く当てることが出来れば獲れます」「さきほど、秀吾から、我が家の女子にあれを食わせてやってくれと云うたのは、まさに、兎汁にございます。時に小夜殿、このあたりにも兎はおりますかな」 「ええ、おります。私共も小さな畑を作っておりますが、良く兎に野菜を食べられております。昼間はあまり見かけませんが」晋助は「それでは小夜様、しばらくお待ちください。兎を取ってまいります」と言って、表へ駆け出した。小夜は呆気にとられて、その背中を見送った。

晋助は表に出ると、周りの景色を眺めた。なだらかな丘陵地で、そう高くもない丘が続いている。その丘の一つに目を付けた晋助はその丘に向かってまっすぐ歩いて行った。思った通り、藪の深い丘の下は原っぱでその一角に膝をついて腰を低くした。そうして、ただの石のように、そこに佇んだ。藪の陰から一匹の兎が出てきた。警戒している様で、きょろきょろと辺りを見回している。そのうちぴょんぴょんと跳ね、丘下の方へ移動していくその背に、晋助は礫を放った。兎は倒れてピクリともしない。更に待った。もう夕暮れ時の丘にはわずかに橙色の空が西の低いところにあるだけになった。出てきた。薄闇の中にもう一匹が現れたとき、今度はすぐさま礫を放った。多分頭だろう。やはり兎は倒れていた。二羽の兎を拾って、来た道を戻った。心配していたのか小夜が表で、手を胸の前で合わせ遠くを眺めるような仕草をしている。晋助は「遅くなってすみません」と声をかけた。それに気付いて、小夜は、声のする方に顔を向け「心配しました。道に迷うていらっしゃるのではないかと思い、気が気ではありませんでした」「いや、本当にご心配をおかけしました。なかなか兎が出てこぬゆえ、待っておったらこんな時間になりましたが、なんとか・・」と言って、晋助は兎を見せた。「まあ、本当に獲れたのですね」小夜は笑顔を見せた。「では早速、とっておきの兎汁を作ります」と言って中へ入っていった。それからしばらくして、「小夜様、友江様。できましたぞ兎汁が」鉄鍋を持ち、友江の休む部屋の隣で今日は夕餉にするそうだ。いつもは友江は布団から体を起こし、汁物をすする程度だそうだ。しかし今日は手当てのお陰か、とても気分が良いから三人で夕餉を囲もうということになった。小夜は甲斐甲斐しく友江の世話を焼き、丁寧に今、出来たばかりの兎汁を装った。皆で手を合わせ「それでは友江様、お願いします」と晋助は言ったが、友江は「今日は晋助殿にお願いいたします」と申された。わしなどが・・と思ったが、「私などでは不足ではありますが、それでは。・・・いただきます」と声を張った。小夜も友江も合唱した。晋助は「友江様、これが、あれです。先ほど秀吾に我が家の女子に食べさせてくれと言わしめた、逸品でございます。さあ、どうぞ」 友江は息を吹きかけ目をつぶり、椀をそっとすすった。「美味しい、こんな美味しいものが・・・」と声にならない。小夜もそれを口に運んだ「これが、兄上のお勧めの」と言った切り声にならない。晋助は「これを最初に秀吾に食わせた日は、秀吾は少々不貞腐れておりました。私が兎を二羽獲ったのに、自分は一羽も獲れず、そのまま夕餉になったのですが、この汁を口にした後は、もうご機嫌でございました。「ほんに、これを食せば、そのような小さきことは忘れてしまいましょう。この婆婆も老い先短き中で、最後にこのような美味なるものがいただけるなど、もう何時あの世へ行っても構いません」「何をおっしゃられます。このようなものくらいで。友江様、これはまだほんの手始めでございますぞ。美味きものは世の中にあふれかえっておりますぞ。そして、私がきっぱりと申し上げておきます。そのご病気は必ず治ります。秀吾と私が作った薬で治して見せます」友江はまた涙を流した。「何を、涙など流されます、友江様。笑いましょう。笑う門には福来るですぞ」今度は泣き笑いになった友江に、小夜は「婆婆さま」と言って、手拭で涙を拭った。それからは、秀吾が薬問屋の女将をあごのしゃくれで笑わせた話や、犬の黒彦を怒らせ、噛みつかれた話などを面白おかしく話して聞かせた。夕餉が終わり、人心地ついたところで、友江に薬を飲ませ休ませた。小夜は気遣いはいらないと言ったが、夕餉のかたずけを手伝った。その手伝いも終わると、互いに向き合う事が気恥ずかしく、何か話さねばと思うが、何を話せばいいのか分からず、おもむろに茶などをすすってみたが、「熱っ」その熱さに湯のみを落としそうになり、同時にむせ返った。「晋助様、大丈夫ですか」と小夜は言ったが、笑っている。さらに焦った晋助は「その、小夜様。何ですな、活計はどうなさっておりますかな」とうっかり聞いてはならんことを口走っうてしまった。「あ、いや。失礼な事を申し上げました。小夜殿しばらくお待ちください」そう言って、息をゆっくりと吸って、丹田に溜めるようにして気息を整えた。落ち着いた晋助は「すみません。正直に申し上げて、女子と二人きりになる事など御座いませんので、友江様がお休みになって二人になれば、落ち着かない心持になりました」小夜は「よいのです。お気遣い召されるな、沈黙もまた良いものです。それより、口を火傷されませんでしたか、入れたてをお持ちしましたので、熱うございましたな」「それは大丈夫です」また沈黙となったが、小夜は「先ほど活計をどうしているかとお伺いなさいましたが、私が機織りで凌いでおります」 「不躾なことをお伺いしました、お許しください」 「いえ、その様な事。遥々兄の使いで来られたのですから、聞いて当然の事、なんでもお聞きください」 「そうだ、小夜様。大事なことを忘れておりました。お待ちください」と言って晋助は荷物の一つから布に包まれたものを取り出した。「これは秀吾からです。お受け取り下さい」と言って包みを小夜に差し出した。「何でしょう」包みをほどいた小夜は「えっ」と言って声にいならない。晋助は「この金子は秀吾が働いた金を貯めて持たせたのでございます」すると小夜もまた、涙を浮かべた。晋助はこの娘はまこと、忙しいのう。怒ったり、泣いたり、恥ずかしがったり・・だが、心優しき良い娘だ。秀吾の言うとおり器量のいい娘だと思い、その姿を眺めた。