すっかり暮れた家路を、晋助は小夜の手を引いて歩いている。つないだ手の温もりは、そこに特別な何かがあるように意識が集中している。二人の手はしっとりと汗ばみ、小夜はそれに気づいているが、だからと言って手をほどく事などできないでいる。汗ばめば汗ばむほど、こんなに濡れているのが恥ずかしく思っているのに、この手を離せば、もう繋ぐことは叶わないことの様に思われて、体の芯が疼く。丘を越えたら家の明かりが見えてきた。ようやくこの濡れた手を離せる安堵と同時に、もう離さなければならない痛みが小夜を包む。もう気付いていた、晋助への気持ちに。そうして家の前にたどり着いたが、晋助は呆気なく手をほどいた。そして、「わしは汗かきなもので、小夜殿をすっかり不快にさせましたな」と言って手拭でふき取ってくれた。小夜はまた、複雑な気持ちになった。拭き取って頂いて良かったような、そのまま濡れていたかったような、どうしていいのか分からないこの気持ちを持て余した。「どうなさいました小夜殿」と晋助の声に我に返った。「いえ、なんでもありません。先にお入りください。私は井戸に参りますので」 「ではお先に」晋助は中に入り、婆婆さまに声をかけている。小夜は井戸端に立ち、桶に汲み上げた井戸水に手を付けた。その冷たさに冷静さを取り戻そうとしたが何も見いだせなかった。木戸の前に立ち、誰にもこの気持ちを悟られないように”ぱん”と顔を両手で叩いて中に入った。二人は夕餉の支度にとりかかっているようだ。婆婆様の指示に従い、晋助様が青菜を刻んだり、塩を入れたりしている。「遅れてすみません。私が変わります」火吹き棒で火を大きくした晋助が顔を上げると目が合った。胸の奥がどきりと脈打ち締め付けられた。目を伏せ、晋助の脇をすり抜け庫裏に立った「婆婆さま、私が変わりますので」と言ったが、友江はただ小夜の顔をじっと見ていた。小夜はいたたまれなくなり、また「すぐに戻ります」と言って表に出た。自分が自分を操れぬこの不可解な心と体をどう扱ってよいのか分からず涙が出た。そこへ木戸が空いて友江が出てきた。小夜は「婆婆さま、私はどうしてしまったのでしょう。もう何もかもが手に付きません。私は・・・」友江は小夜の肩を抱き寄せ「何も心配せずとも良い。今は部屋に戻って休みなさい夕餉も喉を通らんだろう」と言い、部屋の中へ促した。部屋に入った小夜は横になった。もやもやとした気持ちは収まらず、目を瞑ると晋助の顔が浮かび、けれど涙がいつまでも流れていた。
「晋助殿、婆婆の話を聞いてくれぬか。後であれを見舞ってやってくれぬか、あれは患っているようだ。」 「患っているとは何処を患ってらっしゃるのですか」 「胸だ」 「胸?いつから」 「晋助殿が来てからじゃ」 「・・・」 「分かっておるだろう」 「・・・」 「晋助殿を好いておるのだ」 「お待ちください、私は人に好かれる様な者では無いのです」 「誰を好きになるかは小夜が決めること、ただ小夜の気持ちを聞き、晋助殿の本当の気持ちを話せばいい。思いを寄せるも、諦めるも、腹を括ってそうするだけ」晋助は本当に良いのかと考えたが、考えて答えが出る様な事ではないことも分かっていた。友江様、今から小夜殿の所へ行ってきます。どうであろうと素直な気持ちを聞き、話します。」
晋助は小夜の部屋の前に立ち、声をかけた。「小夜殿、お加減はいかがですか。・・・どうか、そのままお聞きください。兄上の秀吾の事は話しましたが、私の事は申し上げておりませんでした。夜分に失礼ですが聞いて頂けますでしょうか。生まれは京にございます。つい、二年ほど前まで、そこで薬種屋の次男坊として過ごしておりました。ある日、十二になる奉公人の喜助と・・・」と、あの日の出来事をゆっくりと詳細に話した。「私は罪を犯し、逃げてきたのが四ケ庄沢渡村だったのです。」その時すっと障子が空いて、小夜が「晋助様、中へお入りください」と言われ、促されるまま中へ入った。その部屋に今、火を入れたのだろう、脇の行灯が部屋をほの明るくしていた。小夜は「なぜそのような話をなさいます。」と聞いて来た「公平ではないからです。私は秀吾に、友江様に、小夜殿ご本人を、見て、聞いて、感じております。小夜殿にもありのままの本当の私を見て、聞いて、感じて欲しいのです」 「お気持ちは分かりました。」 「どこまで申し上げたかな、そう、奉公人の喜助を助けた事は後悔していません。ですが、刃物が肌に突き刺さるというような生々しさは、人の生き死ににかかわる事、やはり私は忸怩たる思いを抱いて生きていますが、秀吾と共に生き、互いの望郷の念を知り、私はこの足利に来ることになりました。そうして、小夜殿に会い、小夜殿はどう感じているかはわかりませんが、心を通わせたと思っております。しかし、もう戻らねばなりません。秀吾にはいい報告が出来ると思います。それから私には・・・許嫁がおりました。名をお雪と言います。あの日から二年、忘れた事はございません。ですが、罪人を二年も待ってくれるような事はありますまい。今は、幸せで居てくれれば良いと願っています。
小夜はぴくりと身体が跳ねたようだった。廊下の方から晋助の声がする。私の体調を気にかけてくれているようだ。晋助はそのまま聞いてくれと言っているが、とても横になって聞けるような気がしない。ましてや病気でも何でもないのだ。悶々としていた布団から起き上がり、障子の向こうの晋助の声に耳を傾ける。自分自身の話を聞いて欲しいと言って語り掛けてきた。晋助は京の生まれらしい、薬種屋の次男坊として育ち、つい二年ほど前まで京に暮らしていたようだ。ある日、奉公人と出かけた折に茶店で酔客といざこざとなり、刃物を振りかざした男を退治たが、不運にも襲ってきた男の刃物が、その男の脇腹に刺さってしまったという事らしい。当たり前だが、人様に刃物を突き立てるという様な経験は無いことから、奉公人の手を取ってその場を離れ、後は一人、松本藩領の今の庵の近くで倒れていたところを助けられたそうだ。話の中で晋助は自分の事を罪人と言った。その言葉には悲しみを帯びた切ない響きがあった。たまらなくなった小夜は障子に歩み寄り、それをそっと開けた。晋助に中に入るように促し、向かい合うように座った。小夜はなぜそんな話をするのかと聞いてみた。晋助の答えは公平ではないからだと言う。小夜は心の内では、そんなことはどうでもいいと思った。それより晋助様は私の事をどう思っているのか、そこだった。晋助様は、私と心を通わせたと言い、更に、もう戻らなければならないと告げた。当然の事だった。いつまでもこの地に留め置くことなど出来るはずなど無かった。そして最後には忘れられない許嫁がいたと申された。罪人を待ってくれるはずも無いと言ったが、女子の思いは、そう簡単であろうか。私には晋助様がもはや、忘れられんように、そのお雪様もやはり同じ思いを思いをお持ちではなかろうかと推察する。小夜は「晋助様、おなごの気持ちは、そう簡単ではないのです。お雪様は今も思いを寄せていらっしゃると思います。」ときっぱりと言った。。「だが、お雪の家は立派な小間物屋だ、たとえお雪がそうだとしても、お家がそうはさせてはくれまい。」 「なぜ諦めておしまいになるのです。まだ何も分からないではありませんか。」と小夜は食い下がった。少し、うな垂れた晋助は「前に進めんのだ。何もかも背負っていては、一歩も前に進めないのです。夢であったことの一つ一つを捨てていくのは辛いが、私も今日を生きている。思いを立ち切らねば前へ進むことは叶わなんだ」晋助の眼には涙が溢れ、強くこぶしを握り締め、その拳を腿に打ち付けていた。この二年、闇を彷徨って、それでも生きてきた晋助の気持ちを思えば、さぞや悔しかったのだろう。小夜は駆け寄り、晋助の頭を抱きしめ、「叶いませなんだな、悔しゅうございましたな、流しなされ、思う存分流しなされ、私は見たことがございませんが海まで流して、晋助様の言う様に幸せをお祈りいたしましょう」晋助は声をあげて泣いた。思い知った。自分では諦める事など容易い事だと思っていたが、叶わぬ夢に己がそれほど執着していた事を。涙を流すほどこだわっていたことを知った。
建仁寺も京見物も上の空だった。秀吾は喜助に「お雪殿の婚儀は誠に決まった事なのか」と聞いた。「わたくしも詳しくは分かりませんが、おそらく間違いないかと思います。詳しく調べましょうか」 「いや、親父殿の話からも間違いないようだ。しかしなぁ、何とかならんのだろうか。」 「分かりません、私のような子供には」 「お前もいずれ誰かを好きになる。そうすれば晋助やお雪殿の張り裂ける様な胸の痛みも分かろう。ましてや一緒になれなかった二人の痛みは想像を絶する。「・・・・」 「なんだ、またお前はくよくよするのか、お前のせいでは無い。それに、晋助は不幸せなどでは無い。今も、誰かのために懸命に生きておる。お前も誰かのために懸命に生きろ。なぁ喜助」 「はい」 「ところで明日、お雪殿に出会うのはお前ひとりか。」 「いえ、秀吾様さえ差し支えなければ、ご一緒していただけますか。」 「良いのか」 「はい、お雪様に晋助様の話をしていただきたいのです。」 「お雪殿にとっては辛い話になるのかもしれんな」 「それでも、お雪様は晋助様の幸せを祈っておられると思います。」 「そうだな、お前の言うとおりだ。では明日は京で最後の大仕事になるな」 「最後とは」 「そういつまでも、ここにおるわけにもいかん。晋助も沢渡村に戻ってこよう。明後日にはここを発つ。」 「そうですか、間も無くお発ちになるのですね・・・」 「まあ、まだどうなるのかは分からんが、もう晋助は罪人では無いのだ、いずれここへも戻ってこよう」 「すぐに戻ってこられますか」 「それは分からん、ここへ来るのに、いくらか金子を借りた、それも返さねばならんしな、世話になっている人たちもいる。犬もいるのだ」 「犬もいるのですか」 「ああ、名を黒彦と言う。立派な猟犬だ」 「私の知らない晋助様の生活があるのですね」 「何を感心しておる。当たり前であろう」 「当たり前ですね、本当に当たり前です。」喜助は嬉しそうだった。
そんな事は今まで経験したことが無かった。強く抱きしめられ、背中をトントンと叩かれ、赤子のようにあやされている。小夜からは良い匂いがした。その現実が晋助を落ち着かせた。顔を離すと小夜は晋助の顔を覗き込み、やはり泣いた子供をあやすように、そっと涙を拭ってくれた。落ち着いた晋助は、「小夜殿、ありがとうございました。・・・涙を流すなど面目次第も御座いません。情けないところをお見せしました。」 「その様な事は良いのです。私も涙を流すと、すっきりします。」思いを貯めおくのも良いのですが、その思いを口に出して流してしまうも、また良いものです。」 「あべこべになりましたな、励ましに来たつもりでいたのですが、小夜殿から元気をもらいました。」 「晋助様が元気になられたのならよかったです」 「小夜殿。はっきりと申すことはできません。申せば不義理をいたすことになります。しかし、私の生きてきた時間の中で、とても幸せなひと時を過ごすことが出来ました。その時を与えてくれたのは紛れも無く小夜殿です。ありがとうございました。」 「晋助様が幸いならば、それは私にとっても大きな喜びです。小夜はもう答えが聞きたいのではありません。ですが一度だけ晋助様にお伝えしたいのです。・・・お慕い申しております。」 「小夜殿、私から言うのもなんですが、先ほど日暮れの道で”これっきりです”と申されたではありませんか。そのうえ、額をわしの胸にぶつけてグリグリしたではありませんか。わしは鈍いほうではありませんぞ!小夜殿。二度まで申さずともこの晋助、あのグリグリで小夜殿の胸の内は分かっております。あのグリグリで!」小夜は恥ずかしさと、晋助が何度も繰り返すグリグリと言う言葉に、ゆでだこのように真っ赤になり「晋助様の馬鹿」と言って顔を覆って後ろを向いた。その小夜を後ろから抱きしめた。「明後日ここを発ちます。お健やかに」と呟いた。
