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元禄 山野流浪紀 その参 「移ろい」

  1. 私小説
2026/04/09

源蔵は畑の脇にある、大きな欅の傍に埋めた。墓石などは無く、目印の様な物もなく、いずれ草に覆われて周りの風景に馴染んでしまうだろう。久蔵たちと一緒に弔ったあと、これからどうするつもりなのかと聞かれたが、猟師になるつもりはないと伝え、源蔵が使っていた火縄銃やその他諸々の物も譲り渡した。ただ一つ、譲らなかったものは、黒彦だけだった。源蔵のいう事しか聞かない犬だが、その源蔵はもう居ない。だからと言って俺になついているわけでもないが、不意に戸口の方に目を向けるのを見ると、主人の帰りを待っている様で哀れだった。まもなく冬が終わり春が来る。一人と一匹の春が。

その日、黒彦を連れて山を降りた。一冬中、薬研で薬草を引いて過ごした。何種類もの薬草を小分けにして重ね、背負子で担ぐ。松本城下の南に位置する町人地の薬種屋に薬を卸す。この薬種屋の橘屋は、死んだ源蔵の取次で薬草を卸している。初めは薬草そのものを、それから試しに粉にしたものを渡してみたら、次からはと、指定された薬草は粉で卸してくれと頼まれた。春から秋にかけて、数回、薬草を持ち込む。

「毎度どうも、沢渡村の源蔵の使いで参りました、山仕事の晋助でございます。」 「ああ、晋助さんじゃないですか、お待ちしてましたよ。裏へ回ってください。」そう告げたのは、橘屋の番頭の惣吉だった。惣吉は手代に「女将さんをお呼びして」と言ってから自分も草履を突っかけて、先に立って案内した。「あの、番頭さん、申し訳ございませんが、今日は犬ずれでございまして、どこか繋いでおくところはございませんか。おとなしい犬ですので、ご迷惑などおかけしませんので」橘屋の番頭は少し考える様子を見せたが「いいよ、裏の戸口の内側に繋いでおいてくれれば」店の入り口から外へ出て左へ行くと、小さな裏木戸があり、そこへ入り、黒彦をつなぐ。繋がれた事など無いので、不機嫌だ。母屋の中は良く手入れされた庭に、大小の木々が石と共に配置されている。縁側に案内され、腰掛けた。惣吉は奥に向かって「お豊、お茶をお持ちしなさい」と声をかけた。晋助は荷物を下ろし、 縛っていた紐を解いた。小分けにした柳行李の一つ一つに、それぞれの薬が入っている。そこへ女将のお詩乃が廊下を渡ってきた。「まあまあ、お待たせしてすみません」 晋助は、立ち居上がって丁寧にあいさつを返した。「橘屋の女将さん、いつもご贔屓にしていただきまして、誠にありがとう存じます」お詩乃は女将であるが、実質店も取り仕切っている。数年前に病で主人は無くなったと聞いている。にっこりと笑顔を作って「あら、いつも言ってるじゃないの、女将さんなんて堅苦しい言い方じゃなくて、お詩乃さんって呼んでくれたらいいのに」 「ありがとうございます。ですが商いで参りましたので、どうか、ご容赦下さい」と頭を下げた。「いつも丁寧にしていただいて、嬉しいんですけど・・まぁ、いいわ。それより薬の出来栄えはどうです」 「昨秋は秋が深まった頃も、小春日和が続きまして、良く干せていますし、何より薬草の当たり年と言える程の豊作でございました」晋助は行李を広げ、薬草各々の生育、その風土などの作柄を話し、今後の見通し等についても、一通りのことを話した。「しかし、当たり年という事もあり、去年は他の薬種屋も山に多く入り込んでいて、私が秘事としていた場所にも入られていました。」 「荒らされたのかい」 「はい、根こそぎ持っていかれました」 「まぁ、そんなに持ってかれて大丈夫なのかい」 「それは大丈夫でございます。複数個所に秘事の場所がありますので。それに、種を取ってあります。この山で採取した種であれば、天地のいい所に蒔けば、また育つでしょう。大きくはありませんが、薬草畑もありますので」 商いのやり取りが進み、買取も終わった。

晋助は姿勢を正し、お詩乃に告げた。「実は、源蔵がなくなりました」それから源蔵の亡くなるまでの詳細を伝えた。「ですので熊の胆は、これが最後になります。私には熊を仕留める術がありません。近隣の猟師から申し出があればお持ちしますが・・」 「晋さん、聞かせてくれて、ありがとう。私らも、源さんには長いことお世話になって感謝しかないけど、私らは薬屋。これからも商いの方は、よろしゅうお願い申し上げます」と心づかいの言葉をくれた。お志乃の挨拶を潮に橘屋を後にした。黒彦は吠えもせず、じっと待っていたようだ。急いで町人地を離れ、街道を急ぐ。日暮れには間に合わないだろうが、黒彦がいれば道に迷うことは無い。街道から間道に入るころには日はとっぷりとくれたが、東の空からは半月の月が昇り、道々を照らしている。里山の村を過ぎ、緩い山道に差し掛かった時、黒彦が急に吠え出した。一瞬、獣かと思い身構えたが、黒彦は足を踏ん張り、前方に向かって吠えているだけだ。黒彦をつないでいた紐を放し、先に行かせた。走り出した黒彦は、その先の黒い塊の周りをうろつき、吠えたり、鼻を鳴らしたりしている。近寄ってみると男が一人、倒れている。仰向けにして鼻に手をかざしてみたが、息はしているようだ。背中を起こし、活法の呼吸活で気を入れると、男は目を覚ました。「ああ」と言う声を漏らしたが、状況が呑み込めないようで、「ここは」とぼそりと呟いた。「ここは、松本藩藩領の北、四ケ庄沢渡村だが、おぬし具合が悪いのか」男は、「ぼりぼりと首の後ろを掻いて「いや、情けない話だが腹がすいて」と言ったようだ。「怪我など無いなら立てるか。少しばかり歩けば私の住処があるので、そこまで歩いてくれれば馳走するが、どうだ歩けるか」男は黙ってうなずいた。

小屋の扉を開け、囲炉裏の灰床から炭を掘り起し、艾を一つまみ乗せ、小枝を被せた。あっという間に炎は立ち上り、蝋燭にも火を入れた。今朝作り置きしておいた、干した鹿肉と雑穀を蒸し上げた鍋を自在鉤にかけ、男には囲炉裏端に座れと促した。晋助は荷を下ろし、旅装束も解いて囲炉裏の前に戻った。自在鉤から鍋を下ろし、黒彦の器に盛ってやった。黒彦も腹が減っていたようで、勢いよく食べている。男が、「何だ、わしらの飯では無いのか」と毒づいたが、男の言葉に関心など無い、と言う様に黙ってもう一つの鍋を火にかけ、米を一掴み入れ、蓋をした。

男は武士の形(なり)をしているが、伸びた月代といい、くたびれた袴といい、浪人者の様だった。だが何といってもその男の特徴は、ひょろ長い顔の一番下にある、杓(しゃく)れた顎だ。外の闇では分からなかったが、明かりのもとでそれは、威光を放つ程に反り返っている。見てはならんと思っても、つい視線はそこへ行き、笑いが込み上げそうになる。しかし、晋助は気を取り直して、たとえ武士であろうが、顎が杓れていようが、どこの馬の骨とも知れない見ず知らずの男を家に上げたわけだから用心はしていた。しかし、また恐る恐るその顎を見た。反っている、いや反りかえっている。晋助は思わず後ろを向いて顔を見られないようにして、土間に降り笑い顔を必死で消すのだが、もう止まらない。声にこそ出さないが、我慢しようとすればするほど、落ち着こうとすればするほど、杓れた顎を思い出し笑いが込み上げてきた。「炭を取ってくる」と言って小屋の外に出た。庭の向こうの大きな石の陰にうずくまり、手ぬぐいを口に当てて笑った。手ぬぐいで声はかき消されただろうが、もう堪えきれなかった。しばらくの後、活法の呼吸法で規則を整えたが、活法はこのようなときのために使うものではないのだが、あのしゃくれ浪人が。と嘯いた。落ち着いた晋助は何食わぬ顔で戻り、炭を足し、男に「聞いてもいいか」と言ったが、男は「済まぬが、後にしてくれ」と言った。くつくつと音を立てて鍋が煮あがってきた。男は「もう、鍋は煮えておろう、入れてくれ」と言ったが晋助は「まだだ」と突っぱねた。「何故じゃ、もう湯気が立ち上り煮えておろう」と言ったが、「米がまだじゃ」と冷ややかに言った。しばらく沈黙が続いたが、玉杓子を静かに掴み、雉鍋を注いだ。男に手渡すとき、ごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。男は一口食べると「んふぅ」と言う、何とも言い難い吐息を漏らし、椀ごと食べるのでは無いかと思える勢いで掻き込んでいる。唖然として、眺めていると「お代わり」と言ったが、声に生気が漲ってきている事から、「自分でやれ」と玉杓子を渡した。

脇の五徳の上に置いた鉄瓶に沸いた湯を飲んでいると、鍋の底まですっかりさらって、男も満足げだ。「では、お侍。聞いてもよろしいか」 「ふむ、どのようなことかの」 「まずはお名前をお聞かせ願いたい」「そうじゃな、まだ名乗ってなかったのう。わしは直江修吾と申す」 「では直江殿、何故あのような山裾で倒れておられた。夕暮れに山に登る者など無いが」 「うむ、それはじゃな」と言った切り、直江は黙り込んだ。訳がありそうだと思ったが、辛抱強く待った。「まっ、よかろう」と言って話を切り出した。「おぬし、足利藩の事を知っておるかのう。ううむ、その」言い淀んでいるようなので 「御自分御届けの事か」 「はははっ、そうじゃ、身も蓋もないような話だが、誠、不甲斐ない主人(あるじ)での、先代から続いた藩の借金で、幕府への上納がままならん故、領地を返すと幕府に申し立てたのじゃ。そおして幕府の介入があり、当然わしらの棒禄の支払いもできんと言い放ち、藩主、本田 忠相(ほんだただまさ)は旗本に格下げされ、一部が反発しておったが、半数以上が解雇という形で放り出された。わしもご多分に漏れずという事だ。それでさらに情けない話だが、彷徨っておった。腹が減って、足元もおぼつかぬことで、この様な有様と言うわけじゃ。」 「まあ、直江殿、事情は相解ったが、なぜこの沢渡村に来られた、足利藩と言えど、近隣諸国ではないぞ」直江はまた黙り込んだが、がははと笑って「意図はない」と言った。「強いて言えば、美しき山があると聞いたからかのう」と呟いた。