日の出とともに起きだし、顔を洗い、荒塩で口を漱ぐ。小屋の前の庭ともいえぬ庭で、体術の鍛錬を半刻ほど行う。父に勧められ、町道場に通うようになって、十年余りも通っただろうか。この楊心流という体術は相手の力を受け流し、急所を突く当身と、棒術、活法という蘇生術や整骨を主体とする柔術である。
流儀の型に沿って体を動かす。しばらくすると汗がにじんでくる。霜の降りる季節になっていたが、上半身は裸になり、更に棒術の稽古を続け、最後は、へその下一寸のところに気をためて、気息を整える。それで、朝の稽古は終わる。丁寧に汗を拭って、着衣にそでを通す。それから朝餉を取り、裏山の斜面に作った畑に入って、薬草の手入れを行う。小屋に戻り薬研車(やげんぐるま)と槽(ふね)で干しておいた薬草を引いていく。あとは、薪を集めたり、茸を取ったりすることが、今の季節の日課だ。
源蔵は下の村の久蔵の他二名と犬とともに猟に出かけた。源蔵は指揮(しかり)で鉄砲撃ち(ぶち)。久蔵たちは勢子(せこ)と呼ばれる、得物を犬とともに追い立てる役を担っている。昨年は皆と共に、何度か猟に出かけた。雪の中、鹿の足跡を追い、勢子に交じって峰を回り込み鹿を源蔵の方へ追い立て、火縄銃で仕留める、巻き狩りという猟だ。仕留めた鹿は、まず首の辺りを切り裂き血抜きを行う。腹から顎下まで切り裂き、臓物を取り出し雪を詰める。これをしないと肉が臭みを持ち不味くなる様だ。雪がなければ解体して各々が担いで帰る。皮は鞣し、角は加工品に、肉は特に背が美味い。腿、胸、舌や胃袋なども食らうが、脂は腹をこわすので、なるべく削ぎ取っておく。一通りのことはできるようになったが、すべて源蔵の教えによるものだ。
その夕刻、久蔵の手下の八と呼ばれる男が、血相を変えて小屋に飛び込んできた。「てえへんだ源蔵さんが、熊の返り討ちにあって、大怪我したんだ。今、連れてくっから手当てしてやってくれ」 「分かった」
程なくして、源蔵が運ばれてきたが、酷い有様だった。着物の襟を開いてみたが、左肩から胸にかけての傷が最も深いようだ。右手の咬み傷からも血が流れている。「右手の血止めと、胸の傷も、荒っぽいけど縫った」と久蔵が言った。
まごまごしている暇は無かった。源蔵は息も絶え絶えで、喋る事もままならない。酒で傷口を洗い、改めて傷口を見ると三本の爪痕が禍々しく、嫌な感じがする。爪痕を縫い合わせると、お互いの傷跡が引き攣れて塞がらない。止む無く、いちばん浅い傷は血止めの薬草を載せて布で巻いた。右手の咬み傷は、血は止まったが、骨が砕けている様で施しようが無い。肌とは思えぬような、紫色に変色し腫れ上がっている。何とか治療を終えたが、血を失いすぎている。源蔵は熱が出ている様で、時折うなされている。口に綿を含ませ、水を少しずつ垂らした。ときおり喉は動いているようだが、今夜が峠だ。久蔵や他の者たちも、皆、うな垂れて、小屋の隅に蹲っている。夜が明けるころ、源蔵は息を引き取った。晋助の胸の内は「俺は薬師で有って、医者ではない。できることはやったのだ」と言い聞かせたが虚しさに囚われた。
父に良い薬草が豊富にあると聞かされていた。そこは美しい峰々がそそり立つ大蓮華山という。憧れと畏怖の入り混じった思いがあるだけで、遠く及ばぬ地にある所であった。しかし、あの日を境に旅を続け、この地にたどり着いた。右も左も分からぬまま、ここへ流れついたが、倒れた。神々しいまでの雪を抱いた峰を、この目で見ることが出来たが、己の所業が招いた事と。涙が流れ、意識が遠くなった。
美味そうな匂いに、目が覚めた。煤で黒々とした天井の梁が目に映った。起き上がり、灯りの方を見ると、背を向けた男が一人、囲炉裏の前で灰を掻いている。その背中に、「もしや、私を助けていただいたのでしょうか」と声をかけた。「気が付いたか。ここからもそっと東で倒れてたんだ。怪我ぁしてねぇから、ここまで連れてきたんだ」 「とんだご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません。なんとお詫びをして良いやら」 「そんなことぁなんでもねぇ。今、飯が出来たから、こっちへ来て食べろ」布団から這い出て、立とうとしたが、脚に力が入らず、ふらついて尻もちをついた。「おめぇ、おまんま食ってねぇんだろ。だから力が入らねんだ」這って、囲炉裏端までやってきたが、手も足も、どこにも力が入らない。装ってもらったおつけを渡されるとき、「しっかり持てよ」と念を押された。そのおつけを口に入れると、こんな美味いもの、今まで食べたことがないと思うほどの味だった。「おめぇ、頬がこけて、目が落ちくぼんで、頼りなかったから、死んでんのかと思った。んで、おぶってここまで連れてきたけんど、背丈の割にゃあ、軽かったから、俺も助かった」 飯の暖かさと、人の温かさが胸に沁みた。討手が迫ってくるのではないかという不安と、一族、店衆への讒言(ざんげん)を思うと胸が苦しく、懸念は尽きなかったが、この温もりにまた涙が零れた。「見ず知らずの私に、このように良くして頂いて・・」 「いいんだ、そんなこと。こんな、何もねぇとこじゃ、助け合うしかねぇんだ。おめぇ、それよかゆっくり食え。いっぺんに食ったら胃の腑が受けつけねぞ」言われるままによく噛んで飲み下した。何かは分からないが香りのいい野草と、これまた何かは分からないが滋養の付きそうな肉を腹に収めると、身体が熱くなった。あらゆる体の隅々の骨、筋、皮、肉や爪先や頭のてっぺんにまで、生気が満ち溢れた。
ふと、土間の方に目をやると、背中の黒い犬が寝そべっているのが見えた。「あの犬と二人で暮らしているのですか」「んだ、名前は黒彦。愛想はねえが、俺の言うことは良く利く。ああ、まだ名乗ってながったが、俺は源蔵。マタギの源蔵ってんだ」 「私は・・」言いよどんだ。「言いたぐなければ、何も言わんでいい。聞いてもどうせ分かんねえから」「源蔵さん、私の名は晋助です。薬を扱う事には慣れております。今はそれだけしか申せません」
その三につづく・・・
