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元禄、山野 流浪紀  その弌「胡乱な日々」

  1. 私小説
2026/03/30

囲炉裏からは、岩魚のいい匂いが立ち上っている。囲炉裏の向こうには、かたくなな表情の源蔵が頭蛇袋を黙々と編んでいる。ここへ来てから一年の歳月が流れた。

「晋助、たんぽり食え」源蔵はぶっきらぼうにそう言い、手は休めず、袋を編んでいる。塩をして、焼いただけの魚なれど、格別に美味い。山の清流に棲む魚だが、餌を付けた釣り針の糸を竹竿に括りつけて、大きな淵に竹竿を突き刺しておくという簡素なものであるが、一晩置いて見に行くと、魚はよくかかっている。源蔵の講釈によれば仕掛けよりも餌のつけ方なのだという。

「親方も得物が冷めねえうちに召し上がってはいかがですか」 「あぁ、今いぐ」源蔵はこの山裾に住む、老マタギだ。鹿や熊、山鳥や雉なども獲る。日々山に入るわけではないが、出かければ二、三日は戻らぬのは常だ。この辺りは四ケ床沢渡村(しかしょうさわんどむら)と呼ばれる、松本藩領の北部。

「時に明日はどうする。猟に行くか、それともまた、薬草摘みに行くのが・・」 「へえ、明日は薬草を摘みにまいります」 「そうか、分かった。んだけど、お前が仕立てた薬草は評判がいいから、山、這いずり回って、いい草取ってこい」 「親方、ありがとうございます」 「けど、おめえ、そのしゃっちょこばった話し方ぁ何とかなんねか」 「すみません、親方」 「そう言うとこだ。おめえはどっかいいとこの大店かなんかの出なんだろうが、こんな山奥で獣獲って暮らしてる俺なんかにそんな言葉ならべて何になる・・」 「お気遣いありがとうございます。言葉は染みついたものでございまして、申し訳ございません」 「まぁいいけんど」

山鳥と山菜のおつけ、焼き魚をあてに、源蔵はどぶろくをちびちびと煽り始めた。蝋燭(ろうそく)と囲炉裏の火に炙られた顔には深い皺が刻まれ、長寿の祝いの掛け軸で見た翁のような枯れた風情が漂っている。腹も朽ちたところで、源蔵は立ち上がり、さして酔った様子もないが「寝る」と言って、小屋の奥へ引っ込んだ。この山域にも秋の気配が忍び寄り、今は忙しい。今、この機を逃してはならない薬草のみならず、茸の類も蓄えておかなければならない。ひと冬を越すためには、薬草も、茸も干しておかねばならないし、親方が仕留めた、獣の肉も煙にあてて燻しておかねばならない。晋助は幼き頃より父の弥三郎に連れられ、あちこちの野山に分け入った。祖父の代から三代に渡る薬種問屋を営み、今は兄の紀三郎が跡目を継いでいる。野辺に生えるどくだみや、深山に自生する当帰(とうき)や千振(せんぶり)などを採取する旅にも出掛けた。

今頃、父上や、母上、兄上もはいかようにお過ごしであろうか。御店(おたな)は厄介ごとに相成ってはおらぬだろうか、と今までも何度か思いつめていたが、今またぼんやりとそんなことを考えていた。

あれは、ほんの些細な出来事であった。奉公に出された、数えで十二になる喜助を連れて、懇意にしている町医者に薬を届けた帰りの事であった。天満宮へ参詣に立ち寄り、喜助と手を合わせてきたが、立ち並ぶ屋台に喜助ははしゃいでいた。茶店で喉を潤そうと、その店に入った。店は賑わってっているようで、数組の客たちが陣取っていた。店先の床机に腰を下ろし、茶を二つと、喜助には団子を頼んでやった。参道を行き来して、汗ばんだ首筋には風が心地よく、表の賑わいに目をやりながら、茶が運ばれてくるのを待った。床机に腰かけた喜助は、脚をぶらぶらさせながら、団子を楽しみにしているようだ。「お待たせしました。お茶と団子でございます。」茶店の娘は朗らかな声でそれを運んできた。喜助は満面の笑みを浮かべ、早速その団子を頬張った。しかし、折り悪く店の奥から現れた男の足に、弾ませていた喜助の爪先があたった。「何しやがる、この餓鬼」不意の怒声に喜助は団子を落としそうになった。晋助は立ち上がり「大変申し訳ございません」と腰を折って謝った。すぐさま、「喜助、こちらの方に誤りなさい」と促した。「申し訳ございません」と喜助も深々と頭を下げた。ところが男は「なめんじゃねえぞ、人様の足を蹴っといて、はい、御免なさいで済まされるか」と凄んでいる。着流しの出で立ちで、人相の悪い男は、酒も入っている様で、更に「どうしてくれんだ」と、なおも目を吊り上げている。店の客や参道にいた人々も、足を止めこちらを見ている。「子供の事です。どうかご容赦いただけませんでしょうか」と言ったが、男は、晋助が落ち着いて、怯む様子のない事に腹を立て。「いきなり殴り掛かってきた。晋助は横にかわすことで、その拳を受け流した。男は二、三歩前までよろけ、振り返った。そして、懐から鞘に収められた刃物を出してきた。眺めていた人達から「ひやぁ」という声が上がった。「どうかおやめください、お金ならば、いくらか払います」怒りに震えた男の顔はどす黒く、悪鬼のような人相で「金なんてどうでもいい、ぶっ殺してやる」と叫んで、刃物抜いて突き出してきた。晋助は左に避けて、今度は男の手首を取って、脛を蹴りつけた。男はもんどりうってひっくり返った。「ううっ」呻く男を見ると、そのわき腹に先ほど突き出した刃物が刺さっている。茫然としたまま男を見ていた晋助は、甲高い悲鳴に我に返った。

喜助の手を掴み、走り出した。もう、どこをどう走ったのかもわからぬまま、たどり着いたのは城下の河岸だった。秋の日差しが降り注ぐ芒の原に身を隠し、息を切らしたまま、喜助に「あの男は死んだのか」晋助はそう聞いた。「いいえ、死んでいません。エビのように体を丸くして、呻いていました」そう聞いたが、声も出せなかった。不慮の出来事であった。あの男が悪いのだ、私は丁寧に謝ったし、お金も払うといったのに。気息が整うと、今度は重い業を背負ってしまった事と、大勢の人に顔を見られたことで、すぐにも番屋へしょっ引かれ、牢に入るか、父や兄、御店にお咎めがあるかもしれず、気持ちが塞ぐばかりだ。そのことが頭をぐるぐると渦巻き、矢も盾もたまらなくなった。「すみません。私のせいで」喜助は涙を流し嗚咽していた。この喜助を弟のようにかわいがっていた。薬草を植え付けた畑の手入れにも、町医者に薬を届けるときも、どこへ行くにも連れ歩き、御店のこまごまとした流儀や作法もそっと言い聞かせた。薬草採取の旅には連れていけぬと言うとがっかりして、しょげたところも可愛げがあった。そうだ、喜助にこんな顔をさせてはならん。腹を括った晋助は「いいか、喜助。今から言う事をよく聞け。わしはこれから旅に出る。お前はすぐさま御店に戻り、この荷を番頭さんに届け、わし事は、もう一軒立ち寄ってから戻るゆえ、暮れ六つまでには戻ると伝えよ。それからもう一つ。わしの部屋に入り、箪笥の一番上の引き出しの中に金子が置いてある、それをすべて持ってまいれ。お役人が来ておったら裏へ回り、忍んで仕遂げてくるのだぞ。良いか、誰にも見られてはならん。申の刻七つ迄にここへ参れ」「分かりました、申の刻七つまでにここへ戻ってまいります」唇を頑なに引き結んでいる。無理もないか、刃傷沙汰を見た後に無理を強いているわけだから。晋助は笑顔を作って「涙を拭け、いつも通りだ、元気よくただいま戻りましたと、声を張れ」喜助を促し、帰らせた。

さあこれから如何いたそう。どこへ行き何をして暮らせば良いのかも分からない。先行きの見えない怯えが晋助を包んでいた。そうして七つの刻限を迎える頃。「晋助様、晋助様」とささやく声がする。芒の藪から「こっちだ」と立ち上がる。「誰にも見られてはおらんか」 「はい、大丈夫だと思います。晋助様、これを」大きな風呂敷包みを渡された。「何を持ち出した」 旅に出ると申されたので、着替えをお持ちしました。それから薬草採取の折の野袴と菅笠も、それから金子です」涙が零れた。しばし涙は溢れ続けたが、気を取り直して、喜助に礼を言った。「ありがとう喜助。それで、役人は御店には来ておらぬか」 「はい、御店はいつもとお変わりありませんでした」 「まだ足は付いておらんようじゃのう」 「はい、番頭さんにも、暮れ六つにはお戻りになるとお伝えしました」 「喜助、よく聞いてくれ。今日の刃傷沙汰はいずれ知れよう。さすれば私が事を起こしたこともわかり、必ず、お役人のお調べも行われ、私は罪人となる。どんな罰を受けるかは分からぬが、ただでは済まされぬ。この上罪を重ねることは心苦しいが、このまま旅に出る。然るに、お前には父上、母上、兄上を助け、御店を盛り上げてほしい。商いの道は厳しいであろうが、立派に勤めあげておくれ。この後、御店に戻って、暮れ六つを過ぎても私が戻らねば、騒ぎとなるだろう。さすれば事の顛末をすべて正直に話して聞かせてやって欲しい。良いか」 また、喜助の目から涙が溢れた。「それから、喜助。。あれは私のしでかした事、決してお前のせいではないぞ。気に病んではならぬぞ」喜助はとうとう声をあげて泣き出した。夕闇が迫っていた。「達者でな」土手を駆けあがり、歩き始めた。後ろから私の名を呼ぶ喜助の声が薄暗くなった枯野に溶けて行った。

その弐につづく・・・