それは、まだ夏の始まりだった頃である。抜けるような青空の広がるその日、登山口の駐車場には車が1台だけ止まっていた。先行者がいらっしゃるようだが、その山は初めてでもなく、一応、熟知している山なので、気負いはない。いそいそと準備に取り掛かり、登山口に一歩を踏み出す。
広々としたブナの森を歩いていくと、そこここに木漏れ日が落ちて、葉陰がやさしく揺れている。しばらく進んだ先の木道にウサギが一匹現れ、フワフワのモコモコなウサギが僕の前をしばらく案内でもするように、僕が近づけば、ピョンピョンと前へ進む。薄茶色のそのウサギは抱っこして頬ずりしたくなるほどかわいかったが、やがて脇にそれて、案内をやめてしまった。
木立の中に笹竹が増えてきたころ、先行者の背中が見えてきた。2人連れの登山者のようだ。やがてその背に追いついて、あいさつを交わす、(僕)「こんにちは!」(相手A30代後半、男)「こんにちは!」(相手B初老、男)「今日は、お1人ですか?」(僕)「はい1人です。今日はいい天気ですね」等と当り障りのないあいさつを交わしていると・・・(相手B)どちらから来られました。(僕)「✖✖✖方面から来ました。」(相手B)「いや~あ登山口にたどり着くのに道に迷いましてね、どうやら大回りしてきたようなんですが、篠山方面に帰るには、どう進めばいいですかね。」(僕)「駐車場から左へ行って・・・・✖✖✖方面へ、それから・・・✖✖✖ですよ」と丁寧に説明して。それではお先です!と言って先を急いだ。
頂上付近に近づいたあたりで少し山菜を取って、ゆっくり頂上に着いた。一休みしていると、先ほどの2人連れのパーティーがやってきた。僕の山菜を眺めて、なんという山菜ですか?どうやって食べるんですか?まだたくさんありますか?など、あれやこれやと聞いてくるので、また丁寧に教えてあげたが、どうやら取らないようだ。そうこうしているうちに、別の、ご夫婦と思われるパーティーがやってきた。やはり当たり障りのないあいさつを交わして、和やかに他愛ない話をしながら、皆それぞれに、昼食に取り掛かった。
昼食もそろそろ終わりかけたころ、ご夫婦の奥さんらしい人が、「来る途中、車から子熊を見かけたんです。もしも、駐車場に車が一台もなかったら、登山をやめようかと思ってました。」今度は初老Bが「それは、子熊がいるという事は親熊も付近にいるという事でしょうから、気を付けねばいけませんなぁ」(奥さん)「ほんと、怖いですねぇ」(初老B)「奥さん!それはご主人に戦ってもらえばいいんですよ!」とここまでは冗談と思えるほどのどかな雰囲気ではあった。(ご主人)「えっ!どうやって戦うんですか?」おや?なんか空気が変わってきたぞ・・(初老B)おやじは、おもむろにストック2本を掲げて、「これですよこれ!これで、戦うんですよ!」僕は腹の中で何を言い出すこのおやじぃ~!と思いいながらも、テンションの上がってきたおやじには、口も出せず、見守るばかり。よせばいいのに(ご主人)「戦ったことあるんですか?」(初老Bおやじ)「私は篠山のなんとか山の山中でクマに遭遇して・・・うんたら・・かんたら・・どうのこうの・・で撃退したんですよ!」と、アゲアゲの饒舌ぶり。聞いてる僕はうんざり。ご主人は、ただ(はあ、はあ)とうなずくばかり、奥さんは口を開けてアングリ。(相手A)はおやじを師匠と仰いでいるせいか、横で真顔で聞いている。
なんなんだこれは?知らない人に、全くの他人に、こんな無責任なことを、真顔(「テンションあげあげのウルトラ饒舌)で伝えていいものなのか?ひとしきり喋ったオヤジはそそくさと弁当箱と荷物を詰め込み、満面の笑顔で、「それでは皆さんお気を付けて!」と嵐のように去っていった。残された我々は、茫然自失の状態から何とか逃れようとはしたが、しばらくの沈黙が余計に怖かったことを覚えている。ようやく気を取り直した僕は、「いやぁ、失礼かもしれませんが、あの人のいう事は信じてはいけませんよ。1m以上もあるクマと戦うなんて、勝ち目がありませんよ!たまたま、あの人が撃退できたというだけで、同じことがだれにでも通用するわけじゃないと思います。時速40kmで走り、あんな長い爪で引っかかれたらひとたまりもありませんよ。」ご夫婦は僕の話には同意してくれたようで、(奥さん)「そうですよね」(ご主人)(私も戦う勇気はありません」・・・お節介かとは思ったが、ご夫婦には話の流れで、僕のクマよけアイテムをご紹介しておいた。(僕)「僕が使っている物は、小学生が持っている、防犯ブザーってありますよね?そのブザーのピンを引き抜くような物ではなく、ボタン式の物があります。藪や、見通しのきかない場所ではこれを鳴らしています。250デシベルの大音量で3種類の音が出せますよ。僕はビビりですから、しょっちゅう鳴らしてます。メーカーは✖✖✖です。アマゾ〇で¥3000くらいです。」(ご主人) 「まあ、とにかくクマに合わないことが一番大事ですよね。」(奥さん)「それほんとに使ってみます」と和やかな空気に戻って一安心。僕も撤収の準備をして、ご夫婦と別れた。
やれやれ、とんでも自慢おじさんには参ったが、その日もいい山行だった。